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今年はじめて、SCCR のリトリートに参加し、賛美チームの一員として奉仕しました。パンデミック以前に何度か、ハーベストタイム主催の LA リトリートに参加していたので、中川健一先生、洋先生、聖書塾の塾生、聖地旅行でご一緒した兄弟姉妹と再会できた祝福、そして、SCCR での、新しい兄弟姉妹との出会いの祝福を受け、心から感謝しています。
奉仕メンバーとして参加できた事で、賛美チームの方、講師を務められた先生方とも、親しくなる事ができ、さらに祝福を頂きました。
アメリカ在住28年の私は、娘たちが生まれ育ったこの国を愛しています。今回の大統領選挙の結果によっては(この原稿は大統領選挙の前に書いています)、聖書預言の進み具合が、大幅に変わると思っています。混沌とした時勢にあって、中川健一先生の「神の国と悪魔の国」の内容を、このリトリートで互いに学び合い、祈り合い、賛美し合えたことは、なんと素晴らしいことでしょう。お二人の姉妹の証しにも、強く心を打たれました。私たちは、各々、唯一のストーリーを持っており、皆、証し人なのだと実感しました。
私のイエス様との出会いは、近所で、私の娘と同じ歳の子供を持つ母親に誘われて、教会へ行ったのがきっかけです。当時の私は、精神的、身体的な圧迫を受け、檻の中に住んでいるような心地でした。その日の教会でのお説教は、「パウロの回心」で、とても劇的な話にびっくりしました。また、讃美歌〝O How I Love Jesus〟を、牧師先生が心の底から、喜びを込めて歌っておられたのを、今でも鮮明に覚えています。この教会の会員が、元ピアノ教師だった私に、「与えられた賜物は、他者の為に用いてこそ、意義があります。教会のためにピアノを弾いてみませんか」と勧めてくれました。他の人から、「下手の横好き」、「あなたのピアノでは一銭も稼げない」と言われ、自分もそう思い込んでいた私にとって、その方の言葉は、大きな励ましとなり、今の奉仕への第一歩となりました。
その後、アメリカの大学、大学院へと進み、卒業後はピアノの伴奏、歌の指導を職業としています。イエス様に出会う前の私は、今の私からは想像もできないほど病弱でしたが、心も体も思考もすべて、イエス様に変えて頂きました。現在、私は日米合同教会という、ニューヨークにあるバイリンガルの教会の音楽主事を担当しています。
この教会に就任した事を記念して、その週に礼拝で用いる讃美歌やプレイズソングにまつわる作者の話をまとめ、自分の伴奏を録音したものをつけて、メール・マガジンにして希望者に送信しています。このリンクから、登録していただけるとお送りいたします。
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これからも、ピアノを通して人々に仕える事で、世の塩であり続けたいと願っています。
相田尚子(あいた・なおこ)
大阪府生まれ。神戸山手女子短期大学作曲科卒。ハンター大学で音楽学士号と修士号をピアノ演奏で取得。さまざまなジャンルのプロの歌手とともに伴奏者として演奏活動および歌とピアノの指導。2004年受洗。日米合同教会音楽主事。
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SCCRサポーターの皆様、
いつもお祈りとサポートをありがとうございます。
10月も下旬に入り、ロサンゼルスも大分秋らしくなり、朝晩肌寒くなってきました。皆様は、いかがお過ごしでしょうか。
さて、ユダヤ暦では、10月16日の夕刻から23日の夕刻まで、「仮庵の祭り」(ヘブル語で「スコット」)です。これを書いている今、世界中のユダヤ人がこの祭りを祝っています。
仮庵の祭りは、「祭りの中の祭り」と呼ばれるほど、盛大で、豪華なものでした。それは、「仮庵の祭りを体験せずに、祭りを体験したとは言えない」とさえ言われるほどのものでした。ユダヤ教のタルムードには、この祭りの情景をこのように記しています。祭りの期間「エルサレムの全領域が照らされ、影一つない」(私訳)。祭りの期間、神殿域全体に光が灯され、その輝きはエルサレム全体を照らすほどのものでした。
祭りの期間、「水汲みの儀式」という儀式が行われます。この儀式では、祭司たちが行列を成して、シロアムの池に下り、黄金の器に水を汲み、神殿に上ります。シロアムの池は、現在の西壁から南に下った先に位置しています。神殿には南の階段を上りますが、その際、ショーファー(角笛)の音が鳴り響き、「都上りの歌」が歌われました。そして、東の門を通り、神殿に上り、祭壇に水を注ぎます。この儀式は、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださることに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するものですが、当時のラビたちは、この水はイスラエルの上に注がれる聖霊を象徴していると解釈しました。
仮庵の祭りは、7日間の祭りですが、その最後の日を「ホシャナ・ラバ」(大いなる救い)と呼びます。最初の6日間、祭司たちは祭壇の周りを1度回ってから水を注ぎました。最後の7日目は、祭壇の周りを7度回り、水を注ぎます。このタイミングで、イエスは以下のことばを語りました。
「祭りの終わりの大いなる日」は、祭りの最終日、「ホシャナ・ラバ」です。その日に、救い主イエス(イエスは「主は救い」という意味)が人々に招きを宣言されたのです。イエスのもとに来て、イエスから飲む者(信じる者)には、聖霊が注がれます。このことばの通り、私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架による救いを信じ、心に聖霊が与えられたのです。ハレルヤ!
世界中のユダヤ人が仮庵の祭りを祝っているなか、私たちは、イエスにあって与えられた恵みを覚え、感謝しようではありませんか。また、今現在、イスラエルは戦いの中にあります。主がイスラエルを守り、平和を与えてくださることを祈りましょう。そして、一人でも多くのユダヤ人、また、異邦人が、イエスを信じる信仰に至るよう祈りましょう。
堀田恵裕(ほりた・よしひろ)
SCCR 主事。1985年生まれ。ロサンゼルス出身。2011年ハーベスト聖書塾修了。2017年グランドキャニオン大学卒業。約8年間のホテルマン生活の後、タルボット神学校入学。2020年、同校を卒業。聖書フォーラム長老。主の備え教会牧師。
11月5日はもう間近に迫っています。多くのアメリカ市民の家には、すでに郵送投票用紙が届いています。次の4年間、誰がアメリカの指導者になるかはきわめて重要なことです。アメリカのみならず世界の政治状況や戦争の終結や平和の維持と深い関係があるからです。
このような時、この世から選び出されたクリスチャンとして、どのように判断したらいいのでしょうか。簡単な問題ではありません。南カルフォルニア・クリスチャン・リトリートに参加された方々の間でもいろいろな見解があるでしょう。
私は、一人の牧師として、また毎日、神の言葉である聖書を学ぶ者として、心がけていることがあります。
第一に、私自身の判断を、教会へのメッセージの中で、神の御意思と一致しているかのごとくに語らない。
教会にはいろいろの立場の人、考え方の方々が出席しています。そこで牧師個人の判断を述べれば、ある人々は賛同し、ある人々は憤慨し、一つのローカル教会の中に亀裂が生じかねません。キリストが語られたように「神の国」はこの世のものではありません。
第二に、その人物の演説のうまさ、口の巧みさによって判断しない。むしろ、その人の人格、品性、今までの個人的歴史をよく調べ、考えて判断する。世界歴史には、大衆が政治家の演説によって動かされ、欺かれ、国全体が脱線し、その国にも、周囲の国々にも実に悲惨な結果をもたらした実例がいくつもあります。その典型の一つは、ドイツの大半の聖職者たちまでもが賛同し、誤った、ヒットラー抬頭の出来事でしょう。
第三に、票を得るために、宗教団体を利用しようとする人物には警戒する。日本の、あるカルト集団は、今でこそ、警戒され、マスコミもこぞって否定的に報道していますが、そのカルトの集会に、日本の与党の多くの政治家が、出席し、祝辞を送っていたことは周知のとうりです。日本だけでなく、米国の大統領を含む海外の指導者たちも、ビデオで、また実際に参加していました。
第四に、自分の判断の元となる情報が本当に確かなものかどうか十分に気をつける。今は放送局も、新聞も、その所有者や組織の立場に偏り、スマホに飛び込んでくるさまざまな情報も、いくつかの国々の情報戦の策略であったりするので、本当に注意が必要です。
このように複雑で、判断を間違えやすい時代のクリスチャンに肝要なことはなんでしょうか。私は全知の神に祈ることであると思います。神様は決して人間に騙されません。聖書もはっきりと、指導者や権威を持つ人のために、祈りの手を常に上げるようにと教えています。それは、これから指導者に選ばれる人々のことも含むと思います。
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(テモテへの手紙一2:1-3 新共同訳)
相原雄二(あいはら・ゆうじ)
東京生まれ・育ち。17歳の時、キリストの救いに与る。すぐに献身して、伝道者、宣教師の道を目指す。インマヌエル聖宣神学院、フラー神学校卒。日本で14年間牧師として奉仕。パプア・ニューギニアで宣教師として18年間奉仕。1997年、SCCR の超教派リトリートを創設。カリフォルニア、ミッション・ビエホ市で宣教師として奉仕中。
聖書は、いくつもの箇所で、教会が「キリストの体」であると教えています(ローマ12:5、第一コリント10:17、第一コリント12:12〜30、エペソ4:12、エペソ5:23、コロサイ1:24、等)。
なぜ教会が「キリストの体」と呼ばれるのかを、私は、最近受けた右肩の手術によって、身をもって理解できるようになりました。
手術後スリングで6週間固定している間、右手が使えなかったので、どうしても不自然な体の動かし方をしていて、手術をした以外のところまで痛むことがありました。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」(第一コリント12:26)とある通りでした。
片腕だけが不自由になったのだから、手を使う動きが半分になりそうなものですが、半分以下の動きしかできませんでした。両手を同時に使うからこそできる動きがとても多いことが分かりました。
その不自由な右肩の動きを補うために、左手だけでなく、体の他の部分が普段では考えられない働きをしてくれました。利き手でもない左手が不器用ながら箸を持ち、歯磨きをする。持ち上げる荷が重い時には、腰が支えてくれる。靴下を履くときに足の指が器用に動いて履きやすくしてくれる。左手だけで棚の開け閉め、物の出し入れができるよう、細かい動きを頭が指示してくれる。服を着るときに口が手伝ってくれる、等々。右手が固定されたままでも、体の他の部分を使うことによって日常のことができました。
体の各部分をまるで人格があるように3人称で書きましたが、この動きこそが教会に集う信徒たちの姿だと思いました。教会では、一人ひとりが大切な役割を担っていて、誰かができなくなったりしたときには、他の方々がそれを補ったり、助けたり、祈ったり、ともに痛みを覚えたりしています。
リトリートでも同じことを体験しました。今回はいろいろな場所に多くの奉仕者が与えられ、私の持ち場でも3人の姉妹がとても素晴らしい働きをしてくださいました。
SCCR も、「キリストの体」です。一人ひとりの働きによって成り立っています。でも働き人が足りません。少ない人数で、手や足、口の役目をしなくてはならない状況です。キリストの体の一部となる多くの奉仕者が備えられるよう共にお祈りいただけると感謝です。
SCCR の働きに参加してくださる方が与えられることを祈りつつ、不自由な日々をも主をさらに知る時としてくださった主を賛美します。
ガゴーラとも子
沖縄県出身。1979年渡米、1991年サンフェルナンド・ホーリネス教会(現クロスウェイ教会)にて受洗。1997年~カリバリー教会 in ウエストヒルズ。日本人補習校、日系旅行会社勤務を経て、現在マッサージセラピスト。子ども2男、2女。
今回、3度目の SCCR リトリートに参加しました。今年は、聖会で証しをすることになり、私の行っていた教会の分裂のことをお話しました。今年の聖会のメッセージ・テーマは、「聖書が教える霊的戦い――神の国と悪魔の国の葛藤」でしたが、まさに、その分裂した教会は、巧妙で、目には見えない悪魔の攻撃に敗北したのです。
クリスチャンとしての自分にも、また教会にも失望していたとき、思いがけず参加することになったイスラエル・ツアーでさまざまなバックグラウンドを持った人々に出会い、「人間のスケールの小ささ」と「神のスケールの大きさ」を知らされ、深く癒されて帰って来たことを、その証しで話しました。
人間には制限があります。私たちは視野が狭く、行き詰まると、どうしても上を仰げず、横を見てしまいます。そんなとき、行き詰まっている枠の中から飛び出して、他の教会、他の地域、他の文化の人々と交わり、フレッシュな目でみことばを味わうのは大切なことであり、大きな恵みだと思います。そういう意味でも SCCR のような超教派のリトリートで、多くの兄弟姉妹たちと、しかも、母国語で交わることができる機会は本当に貴重だと思います。
コロナの最中、オンライン祈り会で知り合った姉妹と思いがけなく出会えたことも、大変うれしいことでした。ニューヨークの姉妹とも新たに知り合え、そこに、日本語で礼拝できる場所があることを知ったのもうれしいことでした。
加えて神様は、予想もしなかった恵みをくださいました。証しでお話しした分裂した教会で一緒に奉仕し、祈り合ってきた兄弟姉妹を10人以上も、このリトリートに集めてくださったのです。みんな捕囚の民のように散り散りになり、今通う教会はみごとにバラバラです。話してみれば、「来るつもりはなかったけど、たまたま一日だけ参加することになった」とか、「誘われたので来てみた」などという方が多かったのでした。これが主のわざでなくて何でしょう! 私たちはゆっくりと時間をかけて癒され、たとえ同じ教会に行ってはいなくても、必ずみんなで心を合わせて主を礼拝できる日が来ることを、共に信じることができました。イエスにあって再び建て上げられるときは、前よりももっと強い信頼で結ばれることでしょう。今回のリトリートは、その将来への「第一歩」であることを互いに確認しあいました。
「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。」(イザヤ54:7)
岩崎淳子(いわさき・じゅんこ)
クリスチャンになってから10年目に「イエスが生前語った福音は、どんなだったのか?」という疑問を持ち、メシアニック・ユダヤ教に出会う。安息日礼拝と主日礼拝を守りつつ、ユダヤ教とキリスト教の和解を祈る。First Fruits of Zion Torah Club 日本語化チーム。南加キリスト教教会連合会計。
「アロハ!」この言葉は、どなたもご存知のようにハワイの挨拶の言葉です。ハワイ州では英語に並んで、ハワイ語も公式言語に指定されています。
ハワイ語はもともと文字を持たない言語でした。そのため、古代ハワイアンは詠唱やフラの動きと歌に、過去の出来事や伝えたい事柄を込め、後世に伝えてきました。あの独特で緩やかな動きのフラダンスからゴスペルフラが生まれ、イエス・キリストを伝えるために、様々なところで用いられるようになりました。
アロハを〝Aloha〟と記述できるようになったのは、1820年にハワイにやってきたキリスト教宣教師たちがハワイ語を文字化したことによります。(日本はその時江戸時代でした。)彼らは聖書の言葉を伝えるためにハワイ語を習得しました。そして、ハワイ語をアルファベットで表記し、ハワイ語は文字になりました。そして文字化したハワイ語を使い、ハワイ語版の聖書を作成しました。
1960年後半 、ハワイアン文学者 ピラヒ・パキ女史が〝ALOHA〟の5文字それぞれにハワイアンとしての大切な心を示しました。もともと古代ハワイアンが感謝を伝えるための言葉に、「アロハの精神」(ALOHA SPIRIT)が定義されたのです。
Akahai 上品、慎ましやか
Lokahi 調和、共生
Akahai 上品、慎ましやか
Lokahi 調和、共生
’Olu’olu 優しさ、しなやかさ
Ha’aha’a 謙虚、低さ
Ahonui 忍耐、我慢
「アロハの精神」(ALOHA SPIRIT)は、一般には「広い心」と思われていますが、ハワイ語を文字化した宣教師たちが定義したなら、それはおそらく「無償の愛」となったと思います。
「無償の愛」とは、神様の愛のご性質を表す言葉です。見返りを求めず、無条件で与える愛、それが神様の愛です。私たちがお願いしたからでもなく、立派だからでもなく、ただ神様が私たちを愛されたゆえに、私たちに必要なことをしてあげたいと思われた――それが十字架だと聖書は語ります。
「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:7〜8)
どんな人であっても、今、神様を信じているか否か、従おうとしているか否か、敵対しているか否か、あるいはこんなことをしたとか、こんな性格だとか、年齢はいくつだとか、そんなことには一切関係なく、神様はあなたを愛しておられ、その愛の証明として、十字架という犠牲を払ってくださったのだと語られています。
それは言い換えれば、すべての人が罪人であるということ、すべての人にこのイエスキリストの十字架による救いの道が備わっているということです。この救いを得るために必要なことはイエス・キリストの十字架の救いを心から信じて受け取ることです。「神様、あなたの愛をいただきたいです!」と叫び求める時、神の愛で満たされる人生が始まります。
クリスチャンこそ、「アロハの精神」(神の無償の愛)に生かされ、満たされ、神を愛し、隣人を愛して歩む者なのです。
関勇矢(せき・ゆうや)
サウスベイ・ホーリネス教会牧師。神奈川県出身。中学からハワイに移り住み、1年間の Azusa Pacific University 留学を挟み、ハワイ大学を卒業。その後、日本ホーリネス教団東京聖書学院を卒業し、現在ロサンゼルスに住み始めて早4年。趣味はカフェ巡り、ハイキングなどのアウトドア系。
SCCRサポーターの皆様、
いつもお祈りとサポートを感謝します。
2024年リトリート(8月26〜28日)開催まで2週間を切りました。登録してくださった方々には心から感謝致します。また、リトリートのためにお祈りしてくださっている方々にも感謝申し上げます。
今回のリトリートでは、日本から、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一牧師をメイン講師と迎えて、「神の国と悪魔の国」というテーマで4回のメッセージを語っていただきます。これは、中川牧師が執筆された新刊書籍「聖書が教える霊的戦い ―神の国と悪魔の国の葛藤―」に基づくものです。紙版と電子版の両方で現在販売中です。リトリート参加者は会場で購入可能です(数に限りあり)。私も書籍を購入させて頂きました。
冒頭の一部を抜粋して紹介させていただきます。
世界の動きを注視していると、「神の国(光の国)と悪魔の国(闇の国)の葛藤」が確かにあることが見えてきます。私たちクリスチャンは、神のことば(聖書)から、この葛藤がどのようなものなのか、よく理解する必要があると私も強く思います。それによって、今がどのような時代なのか、また、この時代をどのように生きるべきなのかが見えてきます。
私たちクリスチャンは、以前は「暗闇の力」(悪魔の国)に支配されていました。しかし、御子イエスを信じる信仰と恵みによって、「愛する御子のご支配」(神の国)に移されたのです。それゆえ、父なる神との平和を楽しみ、自由に、喜んで生きることができます。このような恵みが与えられているからこそ、この世の「霊的戦い」を知り、神の国に属する者として、神のみこころに生きていくのです。
今回、皆様と一緒に、この大きなテーマについて学ぶのを楽しみにしています。ともに神のご計画の理解を深め、ともに主を礼拝しましょう。
引き続き、講師の中川健一牧師、SCCRスタッフ、参加者のためにお祈りください。リトリートを通して、主の栄光が現されることを心から願います。
堀田恵裕
堀田恵裕(ほりた・よしひろ)
SCCR 主事。1985年生まれ。ロサンゼルス出身。2011年ハーベスト聖書塾修了。2017年グランドキャニオン大学卒業。約8年間のホテルマン生活の後、タルボット神学校入学。2020年、同校を卒業。聖書フォーラム長老。主の備え教会牧師。
8月14日は、コルベ神父の記念日です。彼の祖国ポーランドはナチス・ドイツ軍に占領され、コルベ神父はナチスに反対したとされ、ゲシュタポに捕まえられ、あのアウシェヴィッツ収容所に入れられました。1941年2月のことです。囚人たちは人間扱いされず、名前も剥奪され、コルベ神父は囚人番号で「16670」と呼ばれました。人々は一日にパン一個と水のようなスープ一杯だけで強制労働にかり出されました。
その年の夏のある日、コルベ神父と同じ班から脱走者が出ました。収容所の所長はその班全員を集め、その中から10人を選んで、餓死刑にすると宣告し、囚人たちの中から無差別に10人が選ばれました。すると、その中のひとりが突然「私には妻も子もいるのです」と言って泣き崩れました。囚人番号「5659」、ポーランド軍の元軍曹フランシスコ・ガヨヴァニチェクでした。彼はナチスのポーランド占領に抵抗したかどで逮捕されていました。そのときです。囚人の中からひとりの人が所長の前に進み出ました。所長は銃を突きつけ「何が欲しいのだ。このポーランドのブタめ」と怒鳴りました。しかし、その人は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で言いました。「お願いしたいことがあります。私はカトリックの司祭で、私には妻も子もありません。妻子あるこの人の身代わりになりたいのです。」それがコルベ神父でした。所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出ませんでした。囚人たちがみな生き残るのに必死なときに、他の人の身代わりになりたいという囚人が現れたのですから。ふつうなら、そんな申し出が受け入れられるわけがなく、コルベ神父もその場で射殺されていたかもしれませんが、所長はこの申し出を受け入れました。受刑者名簿に、ガヨヴァニチェクの番号「5659」のかわりにコルベ神父の「16670」が書き込まれました。
コルベ神父と他の9人は着物を脱がされて「死の地下室」と呼ばれる餓死監房に入れられました。着物を食べないようにするためでした。そこでは食べ物のひとかけらも、水一滴も与えられませんでした。飢えと渇きのため、発狂し、叫びやうめき声が聞こえるはずなのに、監視員が聞いたのは賛美と祈りの声だけでした。コルベ神父の導きにより「死の地下室」は聖堂にかわったのです。2週間後、6名の者たちはすでに息絶えていましたが、コルベ神父を含めて4人にはまだ息がありました。しかし、薬物を注射され殺害されました。1941年8月14日、コルベ神父47歳のときでした。
戦争が終わってヨーロッパに再び自由が訪れたとき、ガヨヴァニチェク元軍曹は、どこにでも招かれるところに行って、コルベ神父のことを語り伝えました。彼は、世を去る間際まで、コルベ神父の愛の犠牲を語り続けて止まなかったと言われています。私たちにも、私たちの身代わりとなって死んでくださった方、イエス・キリストがおられます。私たちは、このお方のことを語らずにはおれません。黙っていることができないのです。このお方こそ「愛の神」であることを人々が信じ、救われるためにです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
(『我は信ず――使徒信条からのメッセージ』より)
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中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。2019年よりダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。1996年より Penguin Club で伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』発行。Podcast "Philip's Bible Message" ホスト。
リトリートに参加する皆さん、一人ひとりに心からの感謝と励ましの言葉をお届けします。今年は中川健一師を聖会講師として迎えました。この特別な時間を共に過ごすことができるのは神の恵みと導きによるものです。皆さんがこの度のリトリートに参加されることは神の大いなる計画の一部であり、皆さんの心と霊を豊かにするための一歩であると信じます。
イザヤ書40章31節に 「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」とあるように、神は私たちに新しい力と希望を与えてくださいます。このリトリートを通じて、神の愛と導きを受け取り、心を新たにする機会としましょう。
〈リトリートの目的〉
1. 神との親しい交わりを深める: リトリートの目的の一つは、神との親しい交わりを深めることです。日々の忙しさから離れ、静かな環境で神の声に耳を傾けることで、信仰を新たにし、神との関係を深めることができます。
「 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ14:4)
2. 霊的成長と自己反省: リトリートは、霊的成長と自己反省の機会でもあります。神の御言葉を深く学び、自分自身の内面を見つめ直すことで、信仰の成熟を図ります。
「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23〜24)
3. 共同体との絆を強める: リトリートは、参加者同士の絆を強める場でもあります。共に祈り、共に学び、共に過ごす時間を通じて、信仰の兄弟姉妹としての絆が深まります。
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
〈参加の心得〉
1. 心を開き、受け入れる準備をする: リトリートに参加する際は、心を開いて神の声に耳を傾ける準備をしましょう。聖霊の導きに従い、神からのメッセージを受け入れる心構えが大切です。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5〜6)
2. 他者と共に成長する: リトリートは、個人の成長だけでなく、共同体としての成長を目指す場でもあります。互いに励まし合い、助け合いながら進むことが大切です。
「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」(ローマ12:10)
3. リラックスして過ごす: リトリートでは、普段の自分らしさを大切にし、リラックスした状態で神の御前に立ちましょう。形式にとらわれず、自然体で神と向き合うことが重要です。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28〜30)
このリトリートを通じて、皆さんが神の豊かな恵みと愛を体験し、霊的な成長と共に新たな希望と力を得ることができるよう心から祈っています。共に祈り、学び、成長しましょう。
〈祈りの課題〉
以下を日々の祈りに覚えていただければ感謝です。
1. 神との深い交わりを求める祈り
2. 霊的成長と成熟を願う祈り
3. 共同体の一致と愛を求める祈り
4. 聖会講師の中川健一師のために
5. リトリートの全体で奉仕する賛美チームのために
6. 司会者の先生方のために(鶴田健次師、堀田恵裕師、相原雄二師、大川道雄師)
7. 早天祈祷会の奉仕者のために(相原雄二師、鶴田健次師)
8. セミナーの講師のために(大川道雄師、堀田恵裕師)
9. 証し者のために(岩崎淳子姉、小坂 Asiah 亜実姉)
10. 堀田恵裕師の按手式のために
主の栄光の現れを待ち望みつつ。
鶴田健次(つるた・けんじ)
ラスベガス日本人教会牧師。
私の好きな作家の一人、芥川龍之介の作品には、「おぎん」、「おしの」、「神々の微笑み」、「奉教人の死」など、キリスト教に疑問を投げかけるような作品がありますが、その内容から芥川が聖書を読んでいたことが分かります。
芥川の作品「蜘蛛の糸」は、教科書にも載るほど有名で、釈尊に慈悲をかけてもらったカンダタという男の物語ですが、この作品はクリスチャンの立場から読んでも実に奥が深いと思います。
ずうっと以前に読んだ作品ですが、クリスチャンになってから読んだ感想を書いてみます。
〈蜘蛛を助ける行為〉
カンダタのような極悪人と言われる人でも、一瞬、蜘蛛を助けようとする良心は残っていたようです。聖書が、「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と言っているように、どんなに善行を積もうが神の前に義人がいないのと同じように、完全なる悪人も、また、いないと思います。なぜなら、人は、神が、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」(創世記1:26)と言われ、創造されたのですから、誰にも良心があるからです。
〈蜘蛛の糸が降ろされる〉
カンダタは、彼が犯した罪の大きさと比べれば、ごくわずかな良いこと、「蜘蛛一匹を助けた」という小さな行為を高く評価してもらって、蜘蛛の糸を降ろしてもらいました。これは恵み以外の何物でもありません。どうしようもない私たちに、神が人となって、私たちを救いに来てくださったこと。これこそが恵みの中の恵み、最大の恵みです。
〈蜘蛛の糸の奇跡〉
実際の蜘蛛の糸は、一人の男性の体重を支えることはできません。それができたのは、この蜘蛛の糸が超自然のものだったからです。私たちを救うキリストの「恵みの糸」は、全能の神によるもので、決して切れることなく、人を救います。
〈糸をよじ登るカンダタの態度〉
カンダタの後から他の罪人たちがよじ登って来た時に彼が取った態度は、クリスチャンが陥りやすい、次の2つの過ちを示していると思います。
① 神の力の過小評価。それが奇跡の糸であるのに、他の人がぶらさがったら切れるに違いないと思うことは、私たちにもあり得る、神の力の過小評価に繋がりそうです。
② 自分だけがその恵みに与れると思う傲慢さ。極悪人の自分が救われたのが恵み以外の何物でもないなら、どうして他の人にもその恵みが届くと思わなかったのでしょう。神の恵みは偉大で、すべての人に差し出されていることをいつも心して、その福音を伝える者でありたいと思います。
芥川は、聖書を題材とする作品を何冊も書くほど聖書を読んでいながら、イエス様を救い主として受け入れなかったからでしょうか、わずか35歳で、自死しました。聖書を読む誰もが、それを知識として読むだけでなく、聖書によって神を知り、神と共に、日々を歩む者となってほしいと願うものです。
ガゴーラとも子
沖縄県出身。1979年渡米、1991年サンフェルナンド・ホーリネス教会(現クロスウェイ教会)にて受洗。1997年~カリバリー教会 in ウエストヒルズ。日本人補習校、日系旅行会社勤務を経て、現在マッサージセラピスト。子ども2男、2女。
自己憐憫の反対は何だと思われますか? グーグルで検索してみると、自己憐憫の反対は「自信満々」と出てきました。自己肯定感(セルフエスティーム)が低いと自己憐憫に陥りやすいので、自己肯定感が高い、すなわち自信満々が反対語になるという事でしょう。でも聖書を読む時に、私は自己憐憫の反対は「感謝満々」ではないかと思いました。
私は最近、会社の決断に従い、全く自分の希望とは反対のリストラ通達をしなければならない立場に置かれました。長年真面目に働いてくれた方で、業績評価が悪かったわけでもありませんでした。会社の方針変更があり、その方の担当していた地域の仕事量が急激に減ってしまったため、2か月後にポジションをなくさなければならないこと、その2か月間で会社の他の部署に移動できるようできるかぎりの事はする、という旨を誠意をもって、また祈りつつ伝えました。会社は利益を上げることが目的なので、自分を含めて他の社員誰にでも同じことが起こる可能性はいくらでもあります。またリストラではなくとも、人生には自分の思いや計画通りに行かないことが多々あります。私は謙虚に祈らされました。「何も思い煩わないで神に願いを捧げ、人のすべての考えにまさる神の平安が私を含めて関係者全ての心と思いを守ってくださるように」と(ピリピ4:6~7)。状況が変わったからではなく、自信満々だからでもなく、行き詰まっていること、自分ではどうしようもないことも神に知っていただいているという確信が平安に導いてくれる、と聖書が教えているからです。
使徒パウロはテサロニケの教会の人々の信仰を気にかけ、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ5:16〜18・新共同訳)と励ましました。順風満帆なときは簡単かもしれません。しかし、人生の試練にあった時、不安に駆られる時、自己憐憫に陥りそうになった時も「いつも」喜び、「絶えず」祈り、「どんなことにも」感謝することは厳しい要求のように感じられます。でも使徒パウロはこれこそが神の御心であり、兄弟姉妹の心の平安に必要なことだと確信して勧めをしました。
「自己肯定」(セルフエスティーム)が欠けている時、私たちは特に自己憐憫に陥りやすくなってしまいます。健全な自己肯定感を得るためには神との関係を見つめ直し、キリストにある自分を再発見することが不可欠です。また、自己憐憫ではなくても、私たちは皆、時に弱さを覚える事があります。その時は肩の力を抜いて深呼吸、兄弟姉妹に祈りの援護を依頼することも良いと思います。周りの状況が何であっても影響を受けず、神の愛と力を確信し、神との正しい関係から来る健全な自己肯定感を与えられ、喜びと感謝に満ち溢れる日々を送ることができますように。
相原路子(あいはら・みちこ)
ミッションビエホ・クリスチャン教会賛美リーダー。埼玉県坂戸市出身。東京女子大学時代に受洗、卒業後渡米し、コロラドクリスチャン大学で聖書学を専攻。同大学で、ワーシップグループに所属し、近隣州でのツアーや教会での賛美奉仕に参加。
2024年度のリトリートは5月15日に参加申込みの受付を始めてから、参加申込みはすでに定員(100名)の半数以上となりました。例年よりもかなり速いペースで登録が進んでおり、私たち準備委員も大変驚き、また、感謝しています。宿泊施設は全室2人で使うこととなりましたが、ご理解いただきありがとうございました。
リトリートセンターでの宿泊施設は満室となりましたが、「宿泊なしの参加」はまだ可能です。参加を予定している方は、リトリートセンター近くのホテルやモーテルに宿泊し、そこから通うことを検討してください。この場合でも、定員に達する前に、早目の申込みをお薦めします。
次のホテルやモーテルは、リトリートセンターから車で5分ほどのところにあります。ホテルやモーテルの予約やリトリートセンターへの交通手段は、各自でお願いします。
Courtyard Los Angeles Sherman Oaks
15433 Ventura Blvd
Sherman Oaks, CA 91403
コートヤードホテルからリトリートセンターへの地図は、こちらで
The Sojourn Sherman Oaks
15485 Ventura Blvd
Sherman Oaks, CA 91403
★★★ 追記 ★★★
参加者が、会場カフェテリアの定員(65名)を超えましたので、現在、「宿泊なし・食事なし」の参加申し込みのみを受け付けています。カフェテリアの食事は利用できませんが、その代わりに、26日(月)夕食、27日(火)昼食、28日(火)夕食に、各 $10 で弁当を提供します。必要な方は、弁当代金を追加して申し込んでください。(朝食および29日昼食には弁当はありませんので、各自でご用意ください。)
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」(ヨハネ14:18〜19)
今年のはじめに、私は夫、デービットを亡くしました。その時、もう生きていけない、立ち上がることができないと思いました。
しかし翌日の早朝、主のみ前で泣いていると、「デービットの死は、病気に負けたのではない。サタンに負けたのではない。これは主の栄光の凱旋である」と主が語られました。私は娘たちにこの事を分かち、主のことばに家族みんなで泣きました。リビングの円卓を娘たちと囲んで、デービッドのことを話し、涙と笑いの時間を過ごしました。
夫が召されて四日目の朝、私が「ハレルヤ」と主を賛美し、祈るとき、夫が笑顔で手を叩いて喜んでいる姿を見ました。私が地上で喜ぶと、天で夫が喜ぶ。これは大きな慰めでした。
六日目の朝、日曜日の礼拝メッセージタイトルは「モーセは死んだ」でした。みことばは、「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け」(ヨシュア1:2)でした。「モーセが死んだ」とのみことばと、「デービットが死んだ」が重なり響きました。それまで、「デービットが死んだ」という現実は悲しみでしかなかったのですが、この時、彼の死は勝利の凱旋である事、彼が天上で復活の命にあずかり、手を叩いて喜んでいる事などが、次々と映像で私に迫ってきました。
教会は、私と私の家族のために、一つとなって熱心に祈り、支えてくれました。私には教会という大切な家族がある、この群れと共に生きることが私の召命、主からのご命令であることを再確認しました。今、復活の命を持って夫は天国です。ならば私は、この地上で復活する! こうして私は立ち上がりました。
しかし、それから数週間後、私の理解者であり、いつも一緒に働いてきた姉妹が、クモ膜下出血で倒れ、緊急手術となりました。5時間以上に及ぶ手術は無事成功、容態は安定しているものの、大量出血だったため、いつ目覚めるか分からない、家族を呼んだ方が良いと医師に言われました。
教会にとって震撼する試練が押し寄せました。連日の連鎖祈祷が行われ、祈りのネットワークが広がり、主を褒め称えました。教会に一致して祈る信仰が与えられる一方で、何人かの方が一度に教会を出ていくという、痛みも起こりました。このことは、牧会者として私が砕かれなくてはならない試練でした。教会を出るという決断を羊にさせてしまった、牧者の責任は重いのです。
すると今度は、できる者もできない者も、持っている者も、持っていない者も、主にお仕えし、心から礼拝しよう! と、信徒の一人ひとりが立ち上がったのです。今では、「私たちは霊とまことを持って主を礼拝しよう!」が礼拝での合言葉となりました。
死の淵を通ったその姉妹は、主の恵み、奇跡の連続で今元気です。それは教会の大きな喜びとなりました。私たちはますます主を信頼し、ほめたたえています。ハレルヤ!
私の霊的な復活にも、姉妹の病気からの復活にも、数えきれないほどの多くの兄弟姉妹の祈りとサポートがありました。それによって、私たちは、どれほど励まされ、力を受けたことでしょう。心から感謝申し上げます。
キム明子(きむ・あきこ)
ゴスペル・ベンチャー・インターナショナル教会(GIVIC)日本語部牧師。"Stand" Women's Ministry USA 代表。クリスチャン女性の魂のケア、霊的成長の働きに従事。モットー「真面目に喜びと笑いがいっぱい、人に寄り添いイエス様にお仕えするしもべ」。
リトリート参加者の皆様、
2024年8月26日(月)〜28日(水)開催のリトリートまで、3ヶ月となりました。すでに多くの方に申し込みいただき、ありがとうございます。
今年も、皆様と共に素晴らしいリトリートにしたいと、準備委員一同、祈りつつ、準備を進めております。引き続き、お祈りとサポートをお願いいたします。
《会場での宿泊について》
今年は、例年よりも申込数が多いと予想し、5月15日(水)の登録開始日を設定いたしました。登録開始から5日で、既に定員(100名)の半数近くの方々から申し込みを受け取りました。これによって、リトリート会場(Holy Spirit Retreat Center)での宿泊が満室となりました。今後、申し込み頂く方々には、外部ホテルでのご宿泊をお願いいたします。会場での宿泊を希望されていた皆様には、ご迷惑をおかけ致しますが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。
《外部ホテルの案内》
Courtyard Los Angeles Sherman Oaksリトリート会場(Holy Spirit Retreat Center)から、約10分。ホテル内には、レストラン・バー、カフェ、スターバックスなどございます。(別料金)
以下のリンクから、宿泊料金の確認と予約ができます。
Courtyard Los Angeles Sherman Oaks
ホテルからリトリート会場までの交通手段は、各自手配いただくようお願いします。
《リトリート参加料金について》
外部ホテルで宿泊いただく場合、リトリート参加費は「宿泊なしの参加料金」を適用します。
《食事について》
リトリート会場の食堂ではバイキングスタイルの食事が提供されます。食堂での食事の定員は65名です。66人目以降の方々には別オプションを提供いたします。
なお、リトリート会場の定員100名に達した時点で、登録を締め切ります。リトリート参加を検討されている方は、早目にお申し込みください。ご質問等ございましたら、[email protected] まで、ご連絡ください。
私が渡米したのは46年前、1978年でした。当時、多くの人々が、アメリカに憧れを持ち、自分の夢を叶えたいという思いを抱いていたように思います。私もその一人でした。私は、ロサンゼルスに住み、家族を持ち、懸命に働き、家を買い、自分のビジネスも持つことができました。この国は夢が叶う国であることを実際に体験しました。
アメリカ市民権も獲得し、投票できるようになったのですが、アメリカの政治に関しては、ほとんど興味がありませんでした。アメリカの政治は複雑で、難しく、理解できなかったからです。そのような私が、政治に興味を持つようになったのは、2020年の大統領選挙がきっかけでした。政権が変わった途端、あらゆる政策が変わり、以前の4年間とは全く異った状態になったからです。「インフレ」、「外交問題」、「不法移民問題」などのフレーズを聞くようになり、実際に何が起きているのか知りたいと思い、ネットや SNS で情報を検索するようになりました。
日常生活においても、ガソリンの高騰、食料品や生活必需品、ガス、電気代の高騰など、今までに経験したことのない物価高を目の当たりしています。また先月、友人が空き巣の被害に遭い、宝石、現金、バッグ、高価な絵画、家具などを盗まれました。安全な地域でしたが、昼間、仕事に出掛けていた時に入られたと聞き、治安がずいぶん悪化していると感じました。私が暮らしている地域でも強盗や窃盗被害などが起こるようになり、家のセキュリティー強化を余儀なくされています。
私が憧れたアメリカの姿が消えつつあることに非常な悲しみを覚えると同時に、この国の将来に不安も感じるようになりました。そして、これらのことの背後に政治的問題があることが理解できるようになりました。リーダーによって社会状況が一変するのだと痛感しました。それ以来、聖書に「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」(第一テモテ2:1)と教えられているように、国や政治的リーダーのために、より真剣に祈るようになりました。
母国日本も様々な問題に直面しています。日本の素晴らしい文化、良き伝統、豊かな自然が失われていくような政治政策が行われているように思い、日本の将来にも大変不安を感じています。美しい国、規律ある社会、大切な家族を守ろうとする人が立てられるよう心から願っています。
今も世界の各地で戦争や紛争があり、多くの人命が損なわれています。私たちクリスチャンは何よりも世界の平和を祈る者ですが、そのためにも、平和を求める政治的リーダーが起こされるよう祈っています。リーダーによって国政ばかりでなく、他の国々との関係も大きく左右されるからです。政治的立場は違っても、私たちクリスチャンは、福音が伝えられ、多くの人が救われるために、世界の平和が保たれ、信仰の自由が守られるよう、心を合わせ、一つとなって祈ることができると信じています。
ガエミ淳子(がえみ・あつこ)
熊本県人吉市出身、1978年に渡米。FIDMファッションデザインスクール卒業。1983年、受洗。家族:イラン人の夫、3人の子供、2人の孫、母、2匹の犬。ロサンゼルス・エンシノ在住。主の備え教会、教会員。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。(使徒1:14)
復活ののち主イエスは40日にわたって弟子たちにご自分の生きておられることを示され、聖霊を送ることを約束し、天に昇られました。弟子たちは、聖霊が降るまで9日の間祈りに専念し、ついにペンテコステを迎えました。
このことから、クリスチャンの間に9日、連続して集中的に祈る習わしが生まれ、それはラテン語の「9」を意味する言葉で「ノヴェナ」と呼ばれるようになりました。
聖霊は主権者なる神であられ、みこころのままに人を満たされます。しかし、聖書は、一つ思いになり、心をあわせ祈りに専念していた弟子たちに聖霊が臨まれたと教えています。祈るところに聖霊が働かれ、聖霊が働かれるところに祈りがあることは明らかなことです。
SCCR では、5月10日〜18日までの「9日の祈り」の期間、SCCR のため祈っていただくため、聖霊に関する御言葉の黙想と、祈りの課題を1日ごとにウェブページに掲載します。今年の黙想は、アーバイン・キリスト教会 杉村宰牧師によって書かれました。次のリンクよりアクセスしてください。
ペンテコステのノヴェナ
「ノヴェナ」を実行される皆さんに祝福を祈ります。
今から何十年も前のことですが、その頃学んでいたカリフォルニア、 パサデナ市のフラー神学校で、宣教学のコースを選んだことがあります。教授はアーサー・グラッサーという学者でした。その第一回目の講義で、「聖書が宣教について教えていることを学ぶ時に、神の国の実現という角度から学ぶことが重要であり、健全である」と述べられたことが、とても深く心に残りました。それ以来、「神の国とは何であろうか」、という角度から聖書を調べ、色々な書物を読みました。その探求は今も続いています。
イエス・キリストの宣教活動の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコによる福音書1:15)。また復活後、天にお帰りになるまで、弟子たちとしばしば共に過ごされた40日間の教えの中心メッセージは、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」との言葉に要約されています(使徒言行録1:3)。「神の国が来る」という希望が、初代のクリスチャンたちの間でも、いかに重要な信仰の内容であったかは、使徒言行録の、初めから終わりまで、随所に見ることができます。
使徒言行録の最後には、使徒パウロの宣教について次のように書かれています。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録28:30-31)このように、主イエスの教えと、初代のキリストの弟子たちの教えの中心が「神の国」であったことが分かります。では、この「神の国」とは、一体、何なのでしょう。
このことを考える時に、新約聖書のみに偏らず、旧約聖書の多くの予言を含め、総合的に見ることが大切だと思います。私は次のように理解しています。人類は堕落によって、命の木のある「エデンの園」を失い、人間の世界は、人の心の悪によって、傲慢、争い、偽り、略奪、憎しみ、殺意、殺人、戦争、偶像礼拝の絶えない世となりました。病気、老化、死も侵入してきました。しかし神は、愛と知恵に満ちた創造者で、サタンの介入によって、かくも乱された人間の世界と、全被造物を、「エデンの園」以上の、素晴らしい世界、被造物にすることを計画され、そのことを、旧約時代の諸預言者を通して人類に告げられました。そのメッセージの記録が旧約聖書で、そのメッセージの中心はメシア(キリスト)の来臨です。
メシアは子なる神ご自身で、人類の罪の赦しと、神との関係の回復のために、ご自分を犠牲として十字架上で死んでくださいました。しかしキリストは繰り返し予告されました――死後復活すること、栄光の神の右の座に着座されること、やがて、諸々の天使たちを従えて、この世に、真の支配者として戻られることを。キリストがこの世に再臨される時、世界は超自然の維新を経験します。そうして、義と公平と愛と平和が支配する、神ご自身による世界の統治が千年続きます。これはクリスチャンが死後行く天国(パラダイス)とは違います。その後、創造主である神は万物をさらに更新され、永遠の新天新地が出現します。これが旧約聖書の預言者たちが、しばしば予言し、聖書の最後の書、ヨハネの黙示録の20章から22章までに述べられている「神の国の完成」です。
この「神の国」は主イエス様の御霊による宣教によってこの世に始まり、神の右におられる主イエス様が、降臨された聖霊によって支配される、キリストを信仰する人たちの国(群れ)として世界に拡大し続け、イエス・キリストの再臨によって、エルサレムを中心として樹立されるキリストの御国となります。その時、多くのユダヤ人たちはキリストを信じる者となり、御国に入ります。旧約の預言者たちは、回数としては、メシアの受難よりは、メシアの御国について多く述べています。
使徒ペテロは、次のように語っています。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。」 (使徒言行録3:20-21)
興味があり、もっと学びたい方は、次のリンクをクリックして、私が作成した、新約聖書中にある「神の国」についての記述をまとめたものをご覧ください。
新約聖書中の「御国・神の国」
相原雄二(あいはら・ゆうじ)
東京生まれ・育ち。17歳の時、キリストの救いに与る。すぐに献身して、伝道者、宣教師の道を目指す。インマヌエル聖宣神学院、フラー神学校卒。日本で14年間牧師として奉仕。パプア・ニューギニアで宣教師として18年間奉仕。1997年、SCCR の超教派リトリートを創設。カリフォルニア、ミッション・ビエホ市で宣教師として奉仕中。
今年の夏、私は、教会の伝道チームの一員として日本の茨城県にある教会を訪問することになりました。2007年に召された母の葬儀以来、17年ぶりの帰国になります。
「17年?」と周りの人々に驚かれるのですが、私にとってはあっという間でした。「終の住処」(ついのすみか)と信じていたラスベガスからシアトルに移り住んで今年の6月で早や5年になります。
先日、シアトルにある日本人町付近をドライブ中にこんなものを見かけました。
第二次世界大戦中の日系人の歴史ですね。こういうものを見ると普段は忘れがちな自分のルーツを一瞬にして思い出します。
1)自分は日本生まれの日本人自分を語る時に、私自身を表現するための様々な言葉を除外すると結局、この3点だけが私の根幹を形成しているように思います。また、この3点を客観的な視点で注視する時、「あなたには果たすべき責任がある」と言われる主のみ声が聞こえてきます。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ18:19-20)
あらゆる国とまではいかないけれど、日本人として祖国日本の救いのために主が開いてくださった17年ぶりの道。日本の教会で地域に住む子どもたちのためのVBSを行います。私の教会は、日語部もないアジア系アメリカ人教会ですが、もう何年もの長きに渡り日本の救いのために宣教師たちを送り、また毎年夏には伝道チームを送って日本の救いのための活動をしています。
アメリカに住む日本にルーツを持つクリスチャンとして私は、この活動に参加する恵みを与えてくださった主に感謝いたします。何が待っているのか、どんな出会いがあるのか、主がすべてをどのようにご計画されているのか、今から期待に胸が弾みます。
末広和美(すえひろ・かずみ)
北海道札幌市出身。ワシントン州レントン市在住。シアトル市の東側ベルビュー市にあるライトハウス・クリスチャン・チャーチ教会員。職業:日々、犬と格闘するクリスチャングルーマー。家族:娘1人、婿どの1人、犬3匹(ダックス、ゴールデンリトリバー、アラスカン・マラミュート)。
自分が病気になったり、誰かが病気になると、そこから癒されることを祈り、「癒やし」が祈りの課題になります。教会で祈りの課題を募ると、病気の癒しのリクエストが圧倒的に多いのが実情です。
けれども、私の考えは少し違います。C・S・ルイスは『痛みの問題』という名著に、「私たちの苦しみは 取られることが大事なのではなく、その苦しみが、キリストの(十字架の)お苦しみに似ていることが大切なのです」と書いています。
私は高校生の時、死にたいほどの病気になりました。そのときの私の祈りは、「主よ、癒してくださったら、私の人生を主のご用のためにささげます」というものでした。そのとき、私の生涯の献身が決まり、それが、成し遂げられていきました。ローマ8:28の「すべてのことがともに働いて益となる」との御言葉の実現を見ることができました。
それ以来、あらゆる苦しみは、私を目覚めさせる、神の語りかけであると理解するようになりました。ですから、
1. 人生における苦しみ、試練を思い出し、数え上げ、
2. それがどのような神の恵み、語りかけ、教え、出会いであったを学び、
3. 苦しみ、事件、試練などを、神からの語りかけ、教え、エポックであることを知ることに務めるのです。
私たちは皆、そうした「訓練」、「試練」、「導き」を通ります。しかし、マイナスは、必ず、プラスになります。主のご配慮によってです。
これが、私たちキリスト者の通る過程、道筋なのです。
名刀政宗は、火に入れ、水に入れ、たたいて、たたいて作られます。私たちが信仰に導かれ、霊的に成長することができた背後には、かならず、主からの試練があったはずです。「のほほ〜ん」としていて信仰の成長を見た人は誰もいません。
人生には、苦しみを通る経験がたくさんあります。それを神との関係において、どう取り扱って行くかが大切です。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。/それにより 私はあなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)との体験が、私たちの人生を確かなものとするのです。
大川道雄(おおかわ・みちお)
1938(昭和13)年、牧師家族に生まれる。12歳のとき入信、13歳のとき召命を受ける。1975年渡米。カリフォルニアの3つの教会で牧会、2つの教会を開拓。2005〜2021年まで、日本伝道に派遣される。帰米後もロサンゼルスで牧会。北米ホーリネス教団名誉牧師。引退牧師の会会長。
SCCRサポーターの皆様、
いつもお祈りとサポートを感謝します。
2024年も早くも3月に入りました。「四季がない」で有名なロサンゼルスも、今年は雨が多く、少しばかり春を感じられています。新しい季節も皆様が健やかに過ごせますよう、お祈りしています。
さて、3月31日は「復活祭」です。1. イエス・キリストの死、埋葬、復活は、預言通りであった。
2. 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰と恵みによって救われた。
3. キリストの復活は、クリスチャンの希望である。
ハレルヤ!なんと素晴らしい恵みでしょうか。
復活祭までの期間、これらのことを覚え、日々、父なる神を礼拝しましょう。
皆様の上に、主の祝福をお祈りしています。
堀田恵裕(ほりた・よしひろ)
SCCR 主事。1985年生まれ。ロサンゼルス出身。2011年ハーベスト聖書塾修了。2017年グランドキャニオン大学卒業。約8年間のホテルマン生活の後、タルボット神学校入学。2020年、同校を卒業。聖書フォーラム長老。主の備え教会牧師。
私は普段、通勤を始めとするほとんどの用事が半径2マイル圏内で済んでいるローカルドライバーです。
その私が月に一度、子守りならぬ孫守りに他都市に住む娘の所に行くのですが、ご存知のように、LAの渋滞は年々ひどくなってきており、今や、深夜でもない限り、曜日も時間帯も関係なくいつでも混んでいます。空いている時間に移動しているつもりでも3時間近く高速の上を走っていることになります。
その高速道路の途中途中で、以前勤めていた職場があった街を通る時、私は毎回、神様の恵みと哀れみ、そして人々の親切を思い出さずにはいられません。毎日渋滞の中を通勤しなければならない方々に対しては大変申し訳けないのですが、私個人としては「時にかなった職場」を与えてもらっていたのだ、と思えるのです。
離婚後フルタイムで働き始めた時、オフィス業務の経験のない私に与えられたのは遠い勤務地で、シフトも早朝、夜と変化し、あちこちに客対応に行かなければならない職場でした。その時はどこへでも、いつでも運転できる視力と体力が与えられていました。また、就学前だった末娘を早朝から預かってくれる個人経営の託児所が近所にあり、時間に間に合わない私の代わりに迎えに行ってくださったり、親不在の夜の子供たちに声をかけてくれたりと、親切なご近所の方々にも助けてもらいました。
だんだん仕事が忙しくなり、残業が増えて来た頃には、下の子も小3になって上の子たち同様自転車通学ができるようになり、40代で発症した緑内障で夜の運転が難しくなった頃には、バスと地下鉄を使って通勤できる部署に異動となったのです。
その何年か後、近所の小さな会社に転職したものの、たった3か月でリストラ。ちょうどその会社では、コンピューターと棚の荷物の表示を見るのに2個の眼鏡を使い分けなくてはならず目の疲労が激しくなっていたため「目を使わない仕事」を考えていたので、失業期間に、マッサージ師の免許を取るため、専門学校に通うことができました。
それが現在の職業となるのですが、失業保険を貰える期間中に免許を取得しようと、日中も夜もクラスを取ることにしました。その専門学校の夜のクラスや、終了後に就職した職場での夜のシフト日には、バス1本で通えたのです。その会社が10年前にすぐ近所に新しく支店を開店したと同時に異動することができ、現在に至っています。
神様は、私に仕事をし、子どもを育てるのに必要な体力、視力を与えてくださり、それが十分でなくなった時には、他の通勤手段や助けてくださる人々を備えてくださいました。娘の所への長距離運転の間は、カーラジオから流れる賛美曲を聞きながら、そのことを感謝する時間となっています。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:11)
ガゴーラとも子
沖縄県出身。1979年渡米、1991年サンフェルナンド・ホーリネス教会(現クロスウェイ教会)にて受洗。1997年~カリバリー教会 in ウエストヒルズ。日本人補習校、日系旅行会社勤務を経て、現在マッサージセラピスト。子ども2男、2女。
「343の法則」というのを聞いたことありますか?
私は、長年ビジネスの世界で奮闘してきましたが、多くの人たちと仕事をする上で「343の法則」というものがあることを知りました。「343」と書いて「サシミ」と読みます。
大雑把に言えば「3割の人はどんな時も応援してくれる人、4割の人はどちらでもなく、残りの3割は常に否定批判してくる人」というものです。
このことを知るまでは、いつも人の目を気にして、自分がどのように見られているか不安で、人間関係に疲れている状態でした。しかし、この法則を知ってからは、悩みが解消され、無理に人に好かれようと思うこともなくなり、人付き合いがとても楽になりました。
人は、立場によって多少の変動はありますが、この3:4:3の比率に分かれるようです。そして、私たちは肯定してくれる3人や、どっちつかずの4人よりも、否定批判してくる3人のことに心を奪われてしまうことが多々あります。
「嫌い」や「苦手」という感情は、実に力強いものです。
いかに小さなことでも、頭の中の大部分を占めてしまうほどの力があります。更に問題は、私たちは自分のことを否定する人、批判する人、「嫌い」と言ってくる人がいると、そのことに心を騒がせ、落ち込んでしまうことが多いのです。
しかし、「343の法則」を知り、自分自身に適用したとき、考え方が変えられました。
自分がどんなに頑張っても、この法則からすると、3割の人は必ず否定批判します。その中には自分のことを「嫌い」という人もいると思います。もしかすると、私自身、その人のことを「苦手」と感じているかもしれません。
皆さんは、いかがでしょうか。思い当たることがありますか。
その「嫌い」や「苦手」という感覚は、生理的なものであり、どうしようもないものです。私たちは、それをどうにかして変えてみようと考えますが、これは変えようにも変えられないものだと思います。
「343の法則」を知ってから、どこに自分の時間とエネルギーを使うべきかを考えました。自分のことが嫌いな3割に対して時間を費やすより、同じ時間を自分のことを肯定してくれる人たち、あるいは、好きでも嫌いでもないが話を聞いてくれる人たちに使うことの方がより大切だと思うようになりました。それによって、その人たちとより密な関係を築くことができ、自分の精神状態にとっても非常にプラスになると思います。
職場や取引先、近所付き合い、時には教会生活でも、人間関係で悩まされることは多々あります。その中で、自分のことを「嫌い」、「苦手」と思う人たちも必ずいます。その上で、気をつけるべきことは、八方美人にならないことと、無理はしないことだと思います。好かれることに執着せず、自分らしく振る舞い、割り切りを持ち、少し楽観的になることも必要ですね。
また、感情は変わるものだということも忘れてはいけません。今は嫌いという人も変わるかもしれません。
人と繋がり、関わりを持つことは、人間の本質ですが、チャレンジが多いことも事実です。「343の法則」を意識して、前向きなコミュニケーション、より画期的な人間関係の構築を志したいと思います。
皆さんの中で、人間関係に関して同じような悩みを持っている方がいらしたら、是非、一度この「343の法則」から、自身が置かれている状況や、人付き合いなどを考えてみてください。
箴言18:24にこうあります。「多くの友に関わる人は身を滅ぼす。しかし、兄弟以上に親密な友人もいる。」
誰とでも友になろうとすると、自分を滅ぼしかねません。ですから、神のみこころを第一に、知恵を働かせて、兄弟以上になり得る真の友を得たいと願っています。
ガエミ淳子(がえみ・あつこ)
熊本県人吉市出身、1978年に渡米。FIDMファッションデザインスクール卒業。1983年、受洗。家族:イラン人の夫、3人の子供、2人の孫、母、2匹の犬。ロサンゼルス・エンシノ在住。主の備え教会、教会員。
コロナの影響で在宅勤務が増え、外に出て人と会う機会も減ってしまった 2020年以降、ティンダーやマッチドットコムのようなデーティングアプリを活用する方がますます増えたと聞いています。このようなアプリを通して見事良い方に巡り合え、幸せ一杯の友人いわく、「今は良かったと思えるけど、本当に大変だったのよ~。」たくさんの時間を費やし、多くの人とデートを重ね、その過程で〝ゴーストされた〟こともあったそうです。
自分とは合わない人と思っても、礼をつくしてお別れを伝えるのではなく、ある日突然、何の説明もなく幽霊のように消えてしまい、音信不通になってしまうことを〝ゴーストされる〟というそうですね。上手く行っていたと自分では思っていたのに…と大変混乱し、自信を失い、立ち上がれないと感じたこともあったそうです。
デートでなくとも、職場での行き違い、また友人関係のもつれ、何の説明もなく突然口を聞いてくれなくなった、等々、似たような経験をしたことが、皆さんにも、ありませんか?
いい人に必ず会える、と信じてあきらめず、不信感を払拭しようとコミュニケーションを続けて信頼関係を築いた友人は大したものだな、と感心し、また心から喜んでいます。そんな時間と労力を使う価値がない、と諦めてしまう方も多くおられると思います。自信を失い、人間不信になったりすると、信頼を回復するのに時間もかかることでしょう。
しかし、神様はいくら〝ゴースト〟されても、そのご愛が変わることはありません。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
わたしたちが、善い人間になったのでも、能力や魅力があったのでも、条件に適っていたのでもなく、むしろ神様を無視し、敵対していた時に、神様は、ご自分の方からイエス様の十字架を通して、わたしたちが神様と和解できる道を作ってくださいました。そして神様は、今日も、私たちと親密な関係を保たれようと待っておられます。
人間関係と同じように、信頼に基づく親密な関係を保つためには、神様をもっと知ることが必要ですね。では神様はどんなお方でしょうか?
このような聖書のみ言葉を毎朝読むことにより、私たちは神様をもっと知ることができるようになります。その時間は、このような素晴らしい神様を知る素敵なデートのようではないでしょうか? 今年、私たちがさらに広く、長く、高く、深い神様のご愛を知ることができますように。
〔聖句引用は新共同訳より〕
相原路子(あいはら・みちこ)
ミッションビエホ・クリスチャン教会賛美リーダー。埼玉県坂戸市出身。東京女子大学時代に受洗、卒業後渡米し、コロラドクリスチャン大学で聖書学を専攻。同大学で、ワーシップグループに所属し、近隣州でのツアーや教会での賛美奉仕に参加。
「レント」とは、イースター前の四十日間のことをさします。レントはイースターの七週前の水曜日から始まります。この水曜日は、カレンダーに「アッシュ・ウェンズディ」(灰の水曜日)と書かれています。この日には教会に行って額に灰を塗ってもらう慣わしがあります。人はその生涯を終えると灰になって土に返ります。額の灰は、人は塵や灰に過ぎないことを覚えて、神の前にへりくだってレントの四十日を過ごすことのしるしです。
レントは、古代には入信者が教理教育を受ける期間でした。バプテスマを受ける人たちはこの期間、聖書の教えを学び、祈りに専念して、イースターのバプテスマに備えました。後の時代には、レントは内省・自制・克己の期間となりました。レントには、マタイの福音書六章にある、施し・祈り・断食の三つの善行に励むよう教えられてきました。昔のヨーロッパでは、この頃には冬を越すために蓄えた食糧が底をつき始めます。それで、信仰上の理由ばかりでなく、週に一度、一食程度の断食が必要でした。
年に一度はドクターやデンティストに行ってチェックアップをしてもらい、自動車を定期点検に出すように、わたしたちの心や生活も、せめて年に一度は反省の時を持ち、将来に向けて建てなおしていく必要があります。自分の内面を見つめなおし、家庭や職場でのあり方を考えなおす。必要であれば家族で話し合いの時を持つ。和解が必要な人があれば、自分の方から進んでそのことをする。人生の目的やゴールをしっかりと見極める。自分のことばかりでなく、まわりの人々のためにどんな貢献ができるかを考えてみる。レントの期間をそのような時とすることができたら、一日一日がどんなに充実してくることでしょうか。
「レント」という言葉には「長い」という意味があります。春が近づき、日の長さが長くなることから、この期間がそう呼ばれるようになりました。そして「レント」という言葉には、日の光だけでなく、神の言葉の光も、もっとわたしたちの心に差し込み、人生を照らしますようにという願いも込められています。レントの期間に自己点検をするといっても、何の基準も無しにできるものではありません。わたしたちの心を照らし、生活を導く光は、神の言葉です。レントの期間、聖書に親しみながら過ごすとき、わたしたちの心と生活にもっと光が与えられ、やがて、イースターという光に満ちた祝日を喜び一杯に迎えることができるようになるのです。
(中尾フィリップ著『アメリカの祝祭日』より)
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中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。2019年よりダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。1996年より Penguin Club で伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』発行。Podcast "Philip's Bible Message" ホスト。
SCCRサポーターの皆様、
新年明けましておめでとうございます。
新しい2024年も主の平安が皆様と共にありますように。
いつもSCCRの働きのためにお祈りくださり感謝します。
新年の喜びと感謝の思いを胸に、この新たな年を迎えられることを大変うれしく思います。
さて、世界は新型コロナの影響で大きく揺れ動き、世界の政治・経済に深刻な影響を与えてきました。新型コロナのパンデミックで浮き彫りになったことのひとつに、政治判断の重要性があります。パンデミック以前は政治に全く関心がなかった人々が、緊急事態宣言が発令されて不自由な生活を余儀なくされると、政治判断が自分たちの生活に大きな影響を及ぼすことを思い知らされたのです。
現在、コロナ禍は収束しつつあるように見えますが、果たしてそうでしょうか…? 神に反逆するこの世は WHO に国家を上回る権限を与えてグローバル・ワクチン・パスポートを義務化しようとしていますが、そのような動きは何を意味するのでしょうか? また全世界で加速するグローバル化は、聖書的にはどんな意義があるのでしょうか?
グローバル化とは、地球を一つの共同体と捉え、世界の一体化を図ろうとする動きです。EU の会議でしばしば議題に上がる New World Order(新世界秩序)もまさにこのグローバル化の延長線上にある世界政府を目指すもので、その先に反キリストによる世界支配が見え隠れしないでしょうか? 専門家たちはグローバル化のメリットやデメリットついてさまざまな解説をしますが、本当の問題は聖書を通してでなければ見えてきません。
聖書によれば、世界最初の文明はシュメール文明(バビロン文明)であり、その直系に4つの帝国が興ると預言されていました。その4つの帝国とは、バビロン帝国、メディア・ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国で、その通りに興りました。さらに終末には復興ローマ帝国が興るとされており、これがバビロン文明の終焉となるのです。
また、バビロン文明の最初の権力者(独裁者)はニムロデという人物でしたが、その名前の意味は「神への反逆」です。そして、その後に現れるすべての権力者は、いわばニムロデのコピーであり、その本質は神への反逆です。そして、この世の最後の帝国となる復興ローマ帝国の権力者こそ、最後のニムロデとも言うべき反キリストなのです。そして私たちは今、この聖書の終末預言が一つずつ成就しつつある時代に生きているのです。
ところで、人は常に何かを期待し、何かを待ち望みながら生きています。そして、その待ち望むものによって、その人の進む道が違い、得るものが違ってくるのが私たちの人生です。
皆さんは、新しい一年に何を期待し、何を待ち望んでおられますか? 仕事が上手くいき、生活が安定することでしょうか。子供が立派に成長することでしょうか。老後の心配がなくなることでしょうか。もちろん、それらは大切なことですから、ぜひそうなることを期待し、頑張っていただきたいと思います。
しかし、それらのものを期待すると同時に、私たちクリスチャンにとって最も大切な、待ち望むべきものがあります。それはキリストの再臨です。なぜなら、キリストが再び来られる時に、私たちの贖いが完成するからです。私たちの肉体は永遠に朽ちない、栄光の体に変えられ、主のもとに携え挙げられるのです。このキリストの再臨がもたらす贖いの完成は、私たちの地上の生涯における栄光のゴールです。
このキリストの再臨は突然、予期しない時にやって来ます。その時がいつであるか誰にも分かりません。しかし、イエス様は「時のしるし」を示しておられます。そして、その「時のしるし」を見たら、キリストの再臨が近いことを知りなさいと言われました。
今の時代は、前述のごとく、いくつもの「時のしるし」を見ることができる時代です。だから、私たちは目を覚ましていなければなりません。いつ主が来られてもいいように準備をしておかなければなりません。今は、そういう時代だからです。
初代教会の時代から今日に至るまで、クリスチャンたちは、この世の常識ではあり得ないキリストの再臨を待ち望んできました。私たちクリスチャンがキリストの再臨を信じることができるのは、それが100% の確率で的中している聖書の預言にあるものだからです。
キリストの再臨については、旧約聖書には約1500の預言が、また新約聖書にも、全体の25分の1にあたる319節にわたって記録されている大預言です。なぜ、キリストの再臨に関して、それほどまでに膨大な数の記述が聖書の中にあるのでしょうか。それは再臨の出来事が、それだけ重要だからです。
しかし、昔も今も、キリストの再臨の約束を疑う人々がたくさんいます。2000年ほど前の初代教会の時代にも、すでに、「キリストはすぐに来ると言いながら、来ないではないか」と言って、クリスチャンを馬鹿にする人たちがいました。ましてや、今の時代は、もっと多くの人々が、「2000年以上も待って来ないのだから、キリストの再臨などあるはずがない」と言うでしょう。
それに対して、ペテロは、ペテロの手紙第二3:9で、こう言っています。
ペテロは、再臨などないと考えている人々に対して、再臨が遅いのは、神が一人でも多くの人がキリストを信じて救われて欲しいと願っておられるからだと言いたいのです。
しかし、21世紀を迎え、今や数々の聖書預言をもとに、キリストの再臨が本当に近いことを思わずにはいられません。キリストは必ず来られるのです。
もしあなたがノンクリスチャンなら、キリストの再臨に備える第一の事は、自分の罪を認め、キリストを自分の救い主として信じ、この方に信頼して歩み出すことです。本当の神を信じ、神の招きに応えるということは、あなたが持っておられるどんな課題よりも遥かに重大なものだからです。
また、もしあなたがクリスチャンであるならば、ご自分の救いを明確にすることをお勧めします。なぜなら洗礼を受けたことが救いの保証ではないからです。またいつも教会に行くことが、救われている証拠ではないからです。
私がなぜこんな言い方をするかと言いますと、皆さん全員に間違いなく救われて欲しいからです。救われていると思い込んで、救われていないとしたら、そんな悲劇はありません。
救いは、自分の罪を認め、イエス様の十字架の死が私の罪の身代わりの死であったことを受け入れ、イエス様を私の主、また救い主として信じ、受け入れることによってのみ得られるものです。そして、イエス様を主また救い主として受け入れた人は、主がその尊い命を犠牲にしてまで用意してくださった「救いの道」を一人でも多くの人々に宣べ伝えるのです。
これからも、この尊い目的のために SCCR の働きが用いられることを心から願います。
鶴田健次(つるた・けんじ)
ラスベガス日本人教会牧師。
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