新年あけましておめでとうございます。
皆さんは、どんな思いで2023年を迎えられましたか?
世界はますます不透明感を増してきました。毎日、テレビや新聞、ネットなどでの報道を見聞きしている皆さんは世界の状況をどう捉えていらっしゃるでしょうか。相変わらず主流メディアは偏向報道が多く、世界の政治・経済の実態を把握することは簡単ではありません。
そんな中で、私たちクリスチャンは、生ける全能の神の御手の中で守られている者です。ですからどんな時にも、まず神の国と神の義を求める歩みを心が けましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する生活をしましょう。それを実行できれば、皆さんの生活は必ず祝福されます。なぜなら、 それが主の約束だからです。
さて、今日は未来の出来事に目を向けたいと思います。この未来の出来事は私たち全員が直面するものです。それはイエス様の再臨です。それは必ずやって来ます。皆さんはその準備ができていますか?
ルカの福音書12:35〜48で、イエス様は3つのたとえ話を用いて、ご自分の再臨の日のための準備ができていることの重要性を語っておられます。
① まず最初のたとえ話では、イエス様は私たちが常に注意深く、準備しておくべきことを願っておられます。イエス様は、注意して主人の帰りを待つ準備ができて いるしもべは祝福されると言っておられます。しもべに起こりうる最悪の事態は、主人の帰りを待つ準備ができていないことです。
ウィリアム・バークレーは、「キリストの再臨に備える最善の方法は、キリストの存在を決して忘れないことだ」と言いました。皆さんは、イエス様が皆 さんの生きている間に再臨されると思いますか? おそらく皆さんの多くはノーと答えられるでしょう。そこに問題があります。なぜなら、 起こると思ってもいないことに注意などしないからです。
もし私たちが生活の中で主の存在に気づいているなら、それは私たちの見方を変え、考え方を変え、生き方を変え、生活の中で物事に優先順位をつけるはずです。
38節をご覧ください。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでも準備ができているところを主人に見られるしもべたちは幸いです。イエス様は、再臨の時期が分からないので、私たちに常に準備をしておきなさいと言われました。皆さんは準備ができていますか?
② 2番目のたとえ話で、イエス様は再臨が予期しない時に起こると告げておられます。もしも家の主人が泥棒の来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に 押し入られはしなかったでしょう、とイエス様は言われました。家の主人は、どうやって泥棒を防ぎますか? 注意するだけでなく、準備することによってです。
予期しなければ、準備もしません。イエス様の再臨を予期しない場合、私たちは準備をしないのです。しかしイエス様は、私たちが最も予期しない時に来ると言われたのです。だから準備が必要なのです。
③ 3番目のたとえ話では、イエス様の再臨の時が来たとき、イエス様は私たちのうちに信仰を見たいと言っておられます。
イエス様は43節で、「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです」と言われました。私たちがイエス様の御心に従っているとき、私たちは忠実であると見なされます。
45節のポイントは、私たちがイエス様に人生を捧げたのち、イエス様を無視した生活をした場合、大きな問題が生じるということです。私たちは完璧である必要はありませんが、イエス様のために生きようとするべきです。
イエス様が求めておられるのは、あなたが自分の時間を賢く使うことと、キリストの体である教会に集うことです。へブル人への手紙10:25で、こう 言われています。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしよう ではありませんか。」
忠実な人は教会に来ます。彼らは与え、聖書を読み、祈り、他の人々を愛します。彼らはイエス様を愛しているので、それを行おうとするのです。
イエス・キリストは必ず戻って来られます。この方は、私たちの罪のために十字架で死に、三日目に死からよみがえられたのと同じイエス様です。飼い葉桶で生まれ、ナザレで育ち、病人を癒し、死者をよみがえらせたこの同じイエス様が戻って来られるのです。
これと同じイエス様が、私たちの日々の闘いの中に来て下さり、私たちに命と生きる目的を与えて下さいました。この方が再び肉体をもって来られると き、この方は墓の中からキリストにある死者をよみがえらせます。彼らは、イースターの朝によみがえられたイエス様と同じように、朽ちない栄光の体によみが えるのです。
イエス・キリストの再臨は聖書の重要なメッセージです。これはキリスト教信仰の要です。聖書は、バプテスマや聖餐式よりも多く、イエス様の再臨につ いて言及しています。バプテスマは聖書の中で20回、悔い改めは70回、新生は9回言及されていますが、キリストの再臨は新約聖書だけで318回、旧約聖 書には1500以上の言及があります。
黙示録は、「アーメン。主イエスよ。来てください」という祈りで終わります。 私たちは、天からのキリストの再臨は栄光に満ちたもので、私たちが絶えず見守り、祈るべき祝福された希望であると信じています。
あなたは準備ができてますか? 私たちは皆、イエス様の再臨を歓迎する準備ができていなければなりません。
鶴田健次(つるた・けんじ)
SCCR 主事。ラスベガス日本人教会牧師。
「レント」とは、イースターを迎えるまでの40日の期間で、「四旬節」とも呼ばれます。2023年は2月22日の「灰の水曜日」から始まります。レ ントは「40日」といわれるのに、2月22日からイースターの4月9日までは、実際には40日以上あります。それは、主の日(日曜日)は主イエスの復活を 祝う日なので、レントの40日の中に数えないからです。灰の水曜日からイースターまでの週日だけを数えるとちょうど40日となります。
「灰の水曜日」の「灰」の意味や、「レント」という言葉の意味、また、なぜレントが40日なのか、さらに、レントの起源や今日における意味などにつ いては長くなりますので、ここには書きませんが、要望があれば、このブログに「レント」をはじめ、「教会暦」の重要な祝祭日についての解説を書きたいと 願っています。
レントをどのように過ごすかについては、古くから伝えられた慣習があり、マタイ6章に基づいて「施し」と「断食」と「祈り」が推奨されます。この三 つは大切で意味深いことですが、私は、それ以前に、この期間を聖書の黙想によって過ごすのが一番良いと思っています。レントのそれぞれの日に割り当てられ た聖書箇所を読み、それを通して主イエスの十字架への道をたどるのです。
私は、最初、英語で書かれたレントの黙想集を読んでとても感動し、それを翻訳して教会で使いましたが、その後は自分で『レントの黙想』を著し、近年 は、北米で日本語伝道に携わっている先生がたにもお願いして、数名の先生方によって記された『レントの黙想』を、毎年発行してきました。そして、そのうち に、レント期間だけでなく、年間を通しての聖書黙想の手引『日々の聖句』を発行するようになりました。
今年の「レントの黙想」は『日々の聖句』からレント期間の47の黙想の手引を取り出して別冊にしたものです。すでに『日々の聖句』をお使いの方には必要のないものですが、もし、まだ『日々の聖句』を使っていなければ、『レントの黙想』を使ってレントを過ごしてみませんか。
SCCR は、日頃、SCCR のために祈り、また、支えてくださる方々に感謝を表すため、『レントの黙想』を贈呈することになりました。おひとり1冊、米国内に限りますが、お申し込みいただいた方にお送りします。次のリンクからお申し込みください。
また、SCCR に献金してくださる場合は、次のアドレスにチェックを郵送してください。チェックのメモに「レントの黙想」と書き、メールアドレスもご記入ください。チェックに書かれているアドレスにお送りします。
SCCRなお、この特典は2月10日に終了します。2月10日までに届くよう、お申し込みください。
『レントの黙想』を使って聖書の黙想をするとき、SCCR のために祈っていただけるなら幸いです。
2月のカレンダーを見ると、22日には "Ash Wednesday" と書かれています。「灰の水曜日」というわけですが、なぜこの日が「灰の水曜日」と呼ばれるのでしょうか。この「灰」は何を意味しているのでしょうか。
この日が「灰の水曜日」と呼ばれるのは、この日、教会に行って、額に「灰」を塗ってもらう習わしがあるからです。この「灰」はパームサンデー(棕櫚 の主日)に教会で使ったパームの葉を燃やして作ります。もっとも、今では手作りをすることはなく、クリームになったものが専門店で売られています。
聖書では、「灰」は「悔い改め」のしるしです。旧約時代、人々は、悔い改めを表すため、粗布をまとい、灰をかぶりました。主イエスは、ご自分が力あ るわざを数多く行ったのに、悔い改めなかった町を責めて、こう言われました。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざ が、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」(マタイ11:21)「灰の水曜日」の 「灰」は、この日から始まる「レント」の40日を「悔い改め」から始めることを表しています。
「灰」はまた「きよめ」を表します。「汚れ」を除く水は罪のきよめのために献げられた犠牲の灰に水を加えて作りました(民数記19:17〜19、ヘ ブル9:13)。「灰の水曜日」の「灰」は、旧約の犠牲にまさるキリストの血が、悔い改めと信仰によって神に近づく者の罪を赦すことをも示しています。
「灰」は、また、「人は死すべき者である」ことを教えます。「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」とは、じつに厳かな言葉です(創世記 3:19)。これは、人を創造者であり、聖なるお方の前にへりくだらせます。アブラハムは「神の友」と呼ばれるほど神に近い人でしたが(ヤコブ 2:23)、それでも、「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます」(創世記18:27)と言って、神の前にへりくだっ ています。「灰の水曜日」の「灰」は、「レント」の40日を、神の前にへりくだって歩むことを誓うしるしでもあるのです。
さらに、この「灰」は、やがての「よみがえり」の希望のしるしです。イエス・キリストが再び来られるとき、キリストにある死者は、たとえ「灰」とな り、土の「ちり」となっていたとしても、よみがえり、生きている者は栄光のからだへと変えられます(第一コリント15:51〜53)。「レント」の第一日 に受ける「灰」は、40日後のイースターを、さらに、キリストの再臨と「からだのよみがえり」の希望を覚えさせるものです。
額の「灰」は、「灰の水曜日」のファッションであってはなりません。実際に「灰」を塗るか、塗らないかよりも大切なことは、私たちの悔い改めと信仰、そして、希望と確信なのです。
中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サ
ンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。ダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。Penguin Club
より伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』主筆。Podcast "Philip's Bible Message"
ホスト。スモールグループ、セミナー、リトリートの指導。
私が南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート(SCCR)に初めて参加したのは、2007年、第11回目のリトリートでした。当時、準備委員だった鈴木ケン牧師からのお誘いを受けて参加しました。
SCCR の修養会は、様々な教派の牧師先生のメッセージや信徒たちとの交わりがあり、とても楽しく、霊的にも満たされ、励まされ、この働きに参加したいと思い、準備委員に加わりました。現在は、会計を担当しています。
私は、ロサンゼルスのリトル東京にある、長老派教会、ロサンゼルス合同教会で1983年に洗礼を受けて、37年間、会員として属していました。3人 の子供たちと母もそこで洗礼を受け、会員として集っていました。その頃は、合同教会が主催していた夏の修養会にも、SCCR の修養会にも参加していました。
私の信仰が大きく変わったのは、1996年のイスラエル聖地旅行に参加したときでした。私の信仰生活が180度変わり、合同教会ではより熱心に伝道 と奉仕をするようになりました。長老になったのもその頃でした。また、他教会の人たちとの横の繋がりも大切と思い、各地で行われている集会にも、積極的に 参加するようになりました。それによって、他教派の信徒や牧師先生とも繋がることができるようになり、普遍的教会の意味をより体験的に理解するようになり ました。
2006年、「自宅を開放して、ホームチャーチを設立したい」という思いが与えられ、賛同してくださった5名の牧師先生を含む十数名の方々と一緒に 教会をスタートしました。それぞれが所属している地域教会を優先できるように、月に一度だけ、土曜日に集まって礼拝をしていました。誰でも気軽に参加でき る、アットホームな礼拝の場、集いの場を提供すると同時に、伝道ミニストリーをすることが目的でした。設立から暫くして、「主の備え教会」という名前が与 えられ、NPO 法人も取得し、非営利団体として活動を継続しています。
設立から17年、牧師先生や信徒たちも変わりましたが、現在は、最初から関わっていた堀田裕恵(よしひろ)兄弟がタルボット神学校を卒業後、牧師と して、毎週の礼拝やバイブルスタディを導いています。私たちは、聖書を正しく理解し、一人ひとりが霊的に強められ、ますます主の働きに参加することをモッ トーにしています。
私が、SCCR の準備委員を続けている理由は、聖書を信じているクリスチャンが教派という垣根を超えて交わる必要があると信じているからです。年に1回の修養会で、同じ 主を信じる信仰者同士で集まり、共に祈り、賛美し、交わることが必要だと確信しています。また、これによって、世界中の日本人クリスチャンが霊的に高めら れると信じています。霊的成長はもちろん、たくさんの方々と親しくなる機会でもあるので、私にとっては信仰生活に欠かせないものです。
一人でも多くの人が SCCR の修養会に参加し、多くの恵みを受け、信仰の充電をし、それぞれの教会に持ち帰って、大いに活躍してほしいと願っています。
1997年に始まってから26年続いている SCCR の働きが次世代に受け継がれ、ますます前進するよう願っています。
ガエミ淳子(がえみ・あつこ)
熊本県人吉市出身、1978年に渡米。FIDMファッションデザインスクール卒業。1983年、受洗。家族:イラン人の夫、3人の子供、2人の孫、母、2匹の犬。ロサンゼルス・エンシノ在住。主の備え教会、教会員。
エルサレムには「ヴィア・ドロロッサ」(悲しみの道)があります。それは、主イエスが十字架を背負ってゴルゴタの刑場まで歩まれた道です。そこに は14の「ステーション」(留)があって、巡礼者たちは、それぞれの「留」(りゅう)に文字通り留まって主イエスの身に起こった一つひとつのことを思い巡 らし、祈りをささげます。
中世に「ヴィア・ドロロッサ」を模したものが各地に作られ、エルサレム巡礼に行くことができない人たちが、そこで、主イエスの十字架への道をたど るようになりました。さらに後代には、各留の場面を描いたものが礼拝堂内などに飾られるようになり、いつでも、どこででも、「十字架のステーション(道行 き)」を行うことができるようになりました。けれども、それが最も頻繁に行われるのは、やはり、レントの期間です。
「十字架のステーション」の本来の順序は、「死刑の宣告を受ける」、「十字架を担わされる」、「十字架の下に初めて倒れる」、「母マリヤに出会 う」、「シモンがイエスの十字架を背負わされる」、「ヴェロニカ、イエスのみ顔を拭う」、「再び十字架の下に倒れる」、「嘆き悲しむ女性たちを慰める」、 「 三度十字架の下に倒れる」などとなっているのですが、そのいつかは伝承に基づくもので、聖書に記されていません。
それで、私は、ルカの福音書とヨハネの福音書から、次の7場面の「十字架への道」を構成してみました。
【第1場面】イエス、死刑の宣告を受ける ルカ23:13〜24
【第2場面】イエス、十字架を負う ヨハネ19:1〜3、15〜17
【第3場面】クレネ人シモン、イエスの十字架を負う ルカ23:26
【第4場面】イエス、女たちに語る ルカ23:27〜31
【第5場面】イエス、十字架につけられる ヨハネ19:23〜25
【第6場面】兵士、脇腹を刺す ヨハネ19:31〜37
【第7場面】イエスの埋葬 ヨハネ19:38〜42
「十字架への道」を始める前に次のように祈るとよいでしょう。
そして各場面では、次の祈りを繰り返します。
それから聖書を読み、その箇所を黙想し、次の祈りを祈って、次の場面に移ります。
各場面を描いたものを見る、あるいは、「塗り絵」になったものに色をつけながら、御言葉を黙想し、主イエスのお心を想いみるのもよいでしょう。グループ で、全員が座ったままで行うときは、スクリーンに各場面を映し出すのも効果的です。第5場面では、そのために用意された十字架に実際にハンマーで釘を打つ 「釘打ち式」をすることもできます。また、「君もそこにいたのか」(新聖歌113)や「栄えの冠を」(新聖歌105)のおりかえし部分「ゲッセマネの汝を カルバリの汝を 覚えて近づかん 王なるイエスよ」を歌いながら、一つの場面から次の場面へと移るのもよいと思います。
第7場面ののち、次の祈りを祈って、「十字架への道」を終えます。
「十字架のステーション」や「十字架への道」などを、このレントに実践してみてください。レントを意義深く過ごすことができると思います。SCCR のリトリートが「十字架のステーション」のある施設で行われることがあれば、皆さんとご一緒にそれをたどってみたいと願っています。
次回のブログ記事では「十字架上の七つの言葉」をとりあげます。
中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サ
ンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。ダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。Penguin Club
より伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』主筆。Podcast "Philip's Bible Message"
ホスト。スモールグループ、セミナー、リトリートの指導。
グッド・フライデー(聖金曜日)の礼拝では、「十字架上の七つの言葉」がよく用いられます。これは、主イエスが十字架の苦しみの中から語り出された言葉を思いみるもので、その言葉がある聖書箇所は、次の通りです。
私は、グッドフライデーの礼拝では、七つの言葉の一つひとつに担当者を決め、それぞれの箇所からの黙想を分かち合ってもらっていました。七名の証 しのそれぞれに教えられ、主イエスのお心に触れ、主イエスが十字架で命をお献げになるのを許された父なる神のみこころをさらに深く思うことができました。
そして、十字架によって開かれた救いの道を証しするようにとの聖霊の励ましをいただいてきました。
さらに、一つひとつの言葉を想い見る合間に歌う十字架の賛美、「主は命を」(新聖歌102)、「丘に立てる荒削りの」(新聖歌108)、「生くる 甲斐もなしと」(新聖歌111)、「カルバリ山の十字架」(新聖歌112)、「血潮したたる」(新聖歌114)、「ああ主は誰がため」(新聖歌115)、 「栄えの主イエスの」(新聖歌117)、また、テゼの賛美の "Jesus, Remember Me" なども心に迫るものでした。
近年の礼拝は前半が賛美、後半が聖書からのメッセージという形式が多くなりました。ですから、庭を歩きながら行う「十字架のステーション」や、七 名の者が入れ替わり、立ち代り御言葉を分かちあう「十字架上の七つの言葉」などは、新鮮な礼拝体験を与えるものとなるでしょう。
もし、教会のグッドフライデー礼拝に参加できない場合は、各自で、受難週の一日一日に「十字架上の七つの言葉」を一つづつ黙想してみてはどうでしょうか。すくなくとも、グッド・フライデーには、「十字架上の七つの言葉」を思い巡らす時を持ちたいと思います。
中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サ
ンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。ダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。Penguin Club
より伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』主筆。Podcast "Philip's Bible Message"
ホスト。スモールグループ、セミナー、リトリートの指導。
今週の金曜日はGood Fridayです。Good Fridayとはイエス・キリストが十字架で処刑された日です。Good Fridayは春分の日のあとの最初の満月の次の金曜日で、年によって日付が変わる移動祝祭日です。今年は4月7日になります。
さて、イエス・キリストは今から約2000年前、人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架に架かられました。それによって、イエス・キリストを信じるすべての者に、罪の赦しと永遠の命が与えられることとなったのです。これがキリストの十字架が意味するところです。
以下の聖句は、ヨハネの福音書10:17-18にあるイエス・キリストの言葉です。
この聖句を読むと、イエス・キリストは、人の手によって無理やり十字架に架けられて殺されたのではなく、むしろご自分から進んで十字架に架かり、その命を捨てられたのだと言われていることが解ります。
イエス様は、神が人となられた方なので、正真正銘の人間であると同時に正真正銘の神でもあられます。その証拠にイエス様は、天的な権威をもって、誰も知らない神の国の真理を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。
そしてまた、神にしかできない数々の不思議な業(奇跡)を行われました。盲人の目を開き、生まれつきの足なえを立たせ、人々のあらゆる病を癒されました。また悪霊を追い出し、水の上を歩き、言葉だけで嵐を静め、死人を生き返らせることさえなさいました。
その結果、ユダヤ教一色の社会において、多くの群衆がイエス様のところに押し寄せて来るようになったのです。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、その由々しき事態に恐れをなし、またイエス様に対する妬みから、イエス様を葬り去ろうと企むようになるのです。
そこで神は、このような人間の悪しき企みによって御子イエス・キリストが十字架に架けられることを良しとされ、その事を通して、全人類の救いという大事業を成し遂げられるのです。
だからこそ、イエス様は神であられるにもかかわらず、人々のなすがままにされ、何の抵抗もされず、されるがままに十字架に渡されたのです。
群衆も、十字架のイエス様に向かって、「もし、神の子なら自分を救ってみろ」と罵声を浴びせました。ユダヤ教の指導者たちも、「いま十字架から降 りてみろ。そうすれば信じよう」と侮辱しました。また、イエス様の両脇の十字架につけられていた犯罪人の一人も、イエス様を罵りました。それ程までに、イ エス様は無力に見えました。
しかし、イエス・キリストは決して無力ではなかったのです。イエス様が、ご自分が十字架に架かることを知っていながら何の抵抗もされなかったの は、ご自分から進んで十字架に向かって歩んでおられたからなのです。「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるの である。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と言われたとおりです。
その証拠が、イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉の中の6番目の言葉にありました。それが「完了した」(ヨハネ19:30)という言葉です。
これは不思議な言葉です。客観的に見れば、されるがままに十字架に釘付けられた、無力なイエス様のように見えました。しかし実は、そのようにしてイエス・キリストは、父なる神から授かった定めである『人類の罪の贖い』を十字架の上で完了されたのです。
鶴田健次(つるた・けんじ)
SCCR 主事。ラスベガス日本人教会牧師。
「死は勝利に吞み込まれた。」(第一コリント15:54)
みなさんは「トマス」というファーストネームを持っている人を何人ぐらい知っていますか?(ヒント:大統領、電気、その他)この名は12弟子のひとり「トマス」に由来しています。そして、彼は、イースターシーズンに思い起こされる人物です。
十字架の後、キリストの弟子たちは、あまりの恐ろしさのため、隠れていました。そこに復活の主イエスが現れました。「平安あれ」と言われました。 弟子のひとりである「トマス」はそこにいませんでした。トマスは、傷跡にさわらなければ信じないと言いました。それで、後の人々は、彼を「疑い深いトマ ス」(Doubting Thomas)と呼びました。
本当にそうでしょうか、トマスは正直です。〈論より証拠〉、〈百聞は一見にしかず〉です。キリストは後に、トマスのいるところに現れます。わざわ ざトマスだけに会うために…。「さあ、さわってごらん!」と、主はご自分の傷を見せました。聖書を読むかぎりでは、トマスは、触っていないようです。かわ りに彼は、「私の主、私の神よ」と、主を礼拝しました。
復活の主イエスは、どうしても疑ってしまう人間の弱さをよく知っておられます。「見ないで信じる人たちは幸いです」と主は言われました。あなたの 目や耳、手は確かですか。それを確かにするのは信仰です。主は「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われましたが、トマスもまた、主を信じる「幸いな 人」になったのです(ヨハネ20:24〜28)。
伝承によれば、トマスはインドにまで行って、福音を伝えました。インドにはトマス教会があります。 キリストは十字架の死によって、死に勝利しま した。人間の最後の敵は死との戦いですが、キリストは復活によって、すべての人間の問題に勝利したのです。この福音は、それを信じ、それによって救われた 者には伝えずにはおれない〈グッド・ニュース〉なのです。
大川道雄(おおかわ・みちお)
1938(昭
和13)年、牧師家族に生まれる。12歳のとき入信、13歳のとき召命を受ける。1975年渡米。カリフォルニアの3つの教会で牧会、2つの教会を開拓。
2005〜2021年まで、日本伝道に派遣される。帰米後もロサンゼルスで牧会。北米ホーリネス教団名誉牧師。引退牧師の会会長。
“It’s all about you” という表現があります。例えば「今日はあなたの誕生日祝いなのだから、あなたが主役よ」、というように使われたり、あるいは、「あなたはいつも自分のこと ばかりね」、という風にネガティブな使われ方をすることもありますね。私は、最近デボーションや祈りのうちに何度か “It’s NOT about you” という語りかけを受けたことがありました。それは主がお責めになっているというよりは、そっとリマインドして下さる、というものでした。その時私は一旦と どまって、「私の心の奥の動機は本当に神様だったかな」、と自分の心を吟味させられました。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、 心から行いなさい。」(コロサイ3:23)
そして、主は全く清いお方なので、主のための奉仕であれ、人助けであれ、少しの不純物が入っていても喜ばれないのだな、と気づかされます。「主が 喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」(第一サムエル15:22)
神の聖霊は正確な定規で私たちの心を測って、神のご計画とみ思いと一つとなって歩むように導いて下さいます。その定規にぶれはありません。また、 道に逸れた時、引き戻して下さいます。優しく、小さなみ声でささやいて下さいます。“It’s not about you, it’s all about God and His Kingdom”(自分のためではありません。神と神の御国のためですよ)と。
神のみ思いと全く一つになって歩まれたイエス様は、十字架の御犠牲の前に、こう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去 らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)そして、私たちに救いの道を開いて下さいました。
助け主、究極の導き手なる聖霊様、主の御思いと私の思いが1ミリも違わないように私の心を測って下さい。自分の思いではなく、主の御思いがはっきりと解るようにお示し下さい。そして十字架の死に至るまで全く従順であられたイエス様に従って歩む者として下さい。アーメン。
4月と5月の2か月間、3年半ぶりに生まれ故郷の沖縄に帰った。 これまでの訪問では同級生、親族のイベントで1週間ほどの滞在だったが、今回は少し長く居て、移住生活を体験してきた。
沖縄には、先祖崇拝として「先祖の仏壇や墓を守る」ための様々な習慣が根強く残っている。 年に何回かある仏事。そこに集う親族。その準備は長男夫婦が中心となり、長男が家を継ぐということでそのために親の全財産も長男に行く。近年の傾向とし て、仏事は簡素化し、寺に永代供養してもらい、財産分けは法的に子供全員に平等に分けるといったことも無いではないが、昔からのやり方はまだ残っている。
今回、何人かの友人、地域の人たちと話す機会があったが、それぞれがこうした問題に悩まされていた。それどころか、こうした問題から発展し、親子間、兄弟間の人間関係まで壊れてしまったケースもあった。
アメリカで始めた少人数のクリスチャンの勉強会で、今年使用している本が『偽りの神々』(Timothy Keller著)で、日本滞在中も ZOOM で学ぶ日があった。もちろん、先祖を神に祭り上げ拝することは「偽りの神を作ること」であり、偶像礼拝だということはクリスチャンなら知っている。 今回、私に突き付けられた問題はそこではない。実家のことも含め、他の人々からも、「先祖を拝すること」、「家族のために仏壇や墓を守る役目の長男を尊重 すること」、「親子間、兄弟間の信頼や絆」といったことが、いかにもろく、家族の拠り所となるはずのものが互いを傷つけ合う原因になっているということで ある。
問題が起きた時には、それらを拠り所としている事の虚しさを容易に感じる。だが、仕事、健康、家計、夫婦や親子の関係など、生活する上で大切とさ れている様々なことがスムーズに運んでいる時、私たちは、これらのことに幸せを感じ、それこそが人としての崇高な言動であると思い違いをしてしまうのでは ないだろうか。もしそうなら、先祖崇拝のしきたりとともに、それらもまた、「偽りの神々」になりかねない。
今回、そういった問題を突き付けられた折に、勉強会で、アブラハムへの神からの命令のこの箇所が与えられた。「あなたの愛している一人子イサクを 連れてモリヤの地に行きなさい。そして私があなたに示す一つの山の上で、全焼の生贄としてイサクを私に捧げなさい。」(創世記22:2)このみことばは、 他の何者かを、神を信じ、神と共に歩むこと以上のものにしてしまう私たちへの警鐘であるように思う。私にとって時にかなった神様の声に感謝した次第であ る。
ガゴーラとも子
沖縄県出身。1979年渡米、1991年サンフェルナンド・ホーリネス教会(現クロスウェイ教会)にて受洗。1997年~カリバリー教会 in ウエストヒルズ。日本人補習校、日系旅行会社勤務を経て、現在マッサージセラピスト。子ども2男、2女。
今日ほど、世界の歴史が終末時代を迎えていることを確信させる様々な「時のしるし」が見られる時代はありません。イエス‧キリストは「時のしるし」を見分 けるようにと警告されました。21世紀を迎えた今日、聖書の終末預言に見られる多くの「時のしるし」が世界の表舞台に現れています。旧約聖書の中に 1500回以上も預言されている大イベントであるキリストの再臨が刻一刻と近づいている時代に私たちは生きているのです。
聖書の神は偉大な神です。その神が私たち人類に神の計画を知らせておられます。それが「時のしるし」です。それによって神は一人でも多くの人々を救いに導こうとしておられるのです。
終わりの時が近いことを判断するための手がかりとして、たとえばマタイ24:5-8には以下のような「時のしるし」があります。
多くの偽キリストの出現や、戦争、飢饉、疫病、自然災害などが多発すること、これらが終わりの「時のしるし」です。 しかし、惑わされてはなりません。なぜなら、これらの出来事は産みの苦しみの始めでしかないからです。
しかし、「時のしるし」の中には、とても具体的なものもあります。たとえば、エゼキエル戦争、エルサレムの第三神殿の建設、イスラエルに対する敵対行為の増加、世界政府樹立に至る経過などが挙げられますが、終わりのときの最も明らかなしるしは、イスラエルの建国です。
イスラエルは1948年に、約1900年ぶりに国家を再建しました。神はアブラハムに、彼の子孫がカナンの地を「永遠の所有地」として受けること を約束されました(創世記17:8)。預言者エゼキエルはイスラエルの復興を預言しました(エゼキエル37章)。またダニエル書の70週の預言では、終わ りの時代に反キリストがイスラエルと条約を結ぶことを預言していますが、そのためにもイスラエルが国家として存在していることは絶対条件で、1948年以 降、それがいつでも実現可能な態勢が整ったのです。
以上のしるしを初めとして、私たちは聖書にあるさまざまな「時のしるし」を見極めることができますが、一つのしるしだけ取って、終わりの時がすぐ に来るなどと思うべきではありません。神は私たちがその日に備えるために十分な情報をくださいましたが、私たちがその日がいつであるかを正確に知って高慢 になるほどの情報は与えておられません。
今年の南カリフォルニア‧クリスチャン‧リトリート(11月27日〜29日)のテーマは「終末を前にしたキリスト者の生き方」です。このリトリートが終末時代に関し、皆さんの目を大きく開く機会になることを心から願います。
鶴田健次(つるた・けんじ)
SCCR 主事。ラスベガス日本人教会牧師。
主の御名を賛美いたします。
私が SCCR に初めて参加したのは、2011年、⼒丸先⽣がメイン講師の年でした。当時シングルマザーで⼦育てと仕事に忙しい⽇々を過ごしていた私には、SCCR への参加に意欲と希望はあっても、⼦どもを預ける所もなく、教会の皆様が毎年 SCCR 参加後、その恵みを証しされるたびに⼤変羨ましくも、どこか他⼈事に思っていました。
2011年は、多くの参加者が与えられ、⼦どものデイケアがありました。その頃集っていたラスベガス教会の鶴⽥師より、「デイケアのヘルパーとして娘さんも⼀緒に来たら和美さんも参加できるんじゃない?」というオファーをいただき、初参加できました。
修養会の活気と熱量は圧倒的で、聖霊の⾵が会場内のいたるところで吹き荒れていました。2泊3⽇の⽇程で、4回の聖会、2回の分科会、2回の早天 祈祷会、各聖会後のスモールグループ‧ディスカッション、毎⾷と⾃由時間の度に与えられる初めてお会いする⽅々との交わり等、短い⽇程の中に凝縮された神 様の恵みを初めて経験した私は、感動と喜び、また感謝を覚えながら、是⾮続けて参加したいと⽇々祈るようになりました。
翌年の2012年参加後、2013、14年は参加できませんでしたが、感謝なことにその後、昨年まで連続で参加することができています。
2019年、シアトルへの引っ越し後、SCCR 準備委員として奉仕の機会が与えられ⼤変驚くと同時に、困惑しました。南カリフォルニアから遠く離れたこの地で⼀体何ができるのだろうと思っていたとこ ろ、折からのコロナ禍で SCCR は3年連続でオンラインでの開催になりました。シアトルで知り合った数⼈の兄弟姉妹⽅に参加してみないかと声をかけてみたら、それぞれが知り合いを誘い、 20⼈ほどの⽅々がオンラインリトリートに参加して、スモールグループのリーダーや証しをしてくださいました。主が、シアトルでもSCCRを⽤いてくだ さったことを⽬のあたりにし、感動しました。
「こんな働きがあるとは知らなかった。すごいね。」という声を聞くにつれ、⼀⼈でも多くの兄弟姉妹がリトリートに参加して、⽇常の教会⽣活とはひと味もふた味も違う主の恵みにあずかることができますようにと祈り求める⽇々です。
今年はいよいよ4年ぶりで対⾯リトリートの再開となります。皆様、どうか主に祈り求めてご参加ください。リトリートでぜひご聖霊のパワーに触れて ください。主があなたに語られる⾔葉を聞きに来てください。主がご⽤意されている懐かしい⼈々、初めて出会う⼈々に会いに来てください。何よりも、主に会 いに来てください。会場でお会いしましょう!
「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。」(第⼆テサロニケ3:1)
末広和美(すえひろ・かずみ)
北
海道札幌市出身。17年間暮らした砂漠の町、ラスベガスから森と湖の国、ワシントン州ベルビュー市に移り住んでもうじき4年。すっかりワシントニアン。職
業:日々、犬と格闘するクリスチャングルーマー。家族:娘1人、婿どの1人、犬3匹(ポメ、ダックス、ゴールデンリトリバー)。
自分の働きや奉仕が小さく見える時――そのような時がありますね。アメリカには、週末に何千何万という人々が一つのスーパーチャーチと、同時にい くつもの「キャンパス」(同じメッセージをビデオで視聴する枝教会)で礼拝を持つ群れがいくつもあります。それに比べると、在米の日本語の教会は、どれも 極めて小人数のものです。日本にある「大教会」も、小さく見えてきます。
他の人の働きと自分の働きを比較すると、耳元に誘惑の囁きが来ることがあります。ネガティブに反応すれば、自慢したり、劣等感に陥ったり、無力感 を感じたり、今自分がしている奉仕への熱意がなくなったりするでしょう。この頃日本の教会について読んだり聞いたりする時、悲観的な声が多く聞こえてきま す。「全国で洗礼を受ける人の数が減る一方」、「神学校に入る若い人がますます減っていく」、「牧師の平均年齢が60歳を超えている」、「牧師のいない教 会が急増している」等々。
そのような時、次のような御言葉が私の心に迫ってきます。
自分のなすべき事、なし得ることを、怠けず、手抜きをしないで一生懸命、聖霊の御助けと力によって、主ご自身への奉仕として続けさせていただきたい。
自分に与えられている奉仕の重要性を自分で決めないで、やがて再臨される主のために、神より委託されている能力を最大限に活用して主のために働かせていただきたい。
何を見ても、何を聞いても心を動揺させられないで、主が今与えていてくださる奉仕に熱心に当たり続けたい。神のご計画の全体像を知っておられるのは神様だけで、聖名の故の「水一杯」でも決して無駄にはならないと主ご自身がおっしゃったから。
相原雄二(あいはら・ゆうじ)
東
京生まれ・育ち。17歳の時、キリストの救いに与る。すぐに献身して、伝道者、宣教師の道を目指す。インマヌエル聖宣神学院、フラー神学校卒。日本で14
年間牧師として奉仕。パプア・ニューギニアで宣教師として18年間奉仕。カリフォルニア、ミッション・ビエホ市で宣教師として奉仕中。
イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。(マタイの福音書10:1)
これは今も同じであると思います。主イエスが父なる神から遣わされたように、私たちも主イエスからこの世に遣わされています。主は、「蛇のように 賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ10:16)と、一人ひとりをこの世に遣わし、聖霊の助けを与え、宣教を進めておられます。そこには困難がありま す。楽ではありません。ですから、私たちは、父なる神のみこころを、なおも悟り、神の御手におすがりして、この使命に取り組むのです。
無学のただ人と言われていた弟子たちが主イエスの十字架と復活を経験し、聖霊に満たされ、「燃える心」を持って世界伝道に遣わされました。私たち も、聖霊の承認の中で、家庭に、社会に、学校に、職場に遣わされているのです。私たちは皆、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子とし なさい」との大宣教命令を、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:19〜20)との約束とともに受けていま す。
主は、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(マ タイ10:40)と言われました。遣わされた私たちを通して、人々は、神が遣わされたキリストを受け入れ、キリストを受け入れることによって神に立ち返る のです。遣わされた者の人生はなんと感謝と感動に満ちていることでしょうか。
主よ、遣わされていることの光栄を感じる者にしてください。
(『日々の聖句』より)
大川道雄(おおかわ・みちお)
1938(昭
和13)年、牧師家族に生まれる。12歳のとき入信、13歳のとき召命を受ける。1975年渡米。カリフォルニアの3つの教会で牧会、2つの教会を開拓。
2005〜2021年まで、日本伝道に派遣される。帰米後もロサンゼルスで牧会。北米ホーリネス教団名誉牧師。引退牧師の会会長。
サポーターの皆様、
ハレルヤ。いつもお祈りとサポートを感謝します。
9月に入りました。先日の発表の通り、今年のリトリートは11月の開催になりました。一人でも多くの人が集まり、共に主を礼拝できることを願っています。
さて、今回は、コリントの手紙第一10:13のことばを考えたいと思います。是非、皆様の日々の聖書研究の参考にしてください。
1.「試練」
2.「耐えられない試練はない」
3.「脱出の道」
イエス・キリストこそ、私たちの逃れの道です。
今、誘惑に直面している人は、神に祈りましょう。どんな誘惑も、神の許しを越えるものはなく、神は、そのすべてをご存じです。そして、私たちが神に祈り求めるとき、神の平安を与えてくださり、御子イエス・キリストにあって守ってくださいます。
主の祝福をお祈りしています。
堀田恵裕(ほりた・よしひろ)
1985年生まれ。ロサンゼルス出身。2011年ハーベスト聖書塾修了。2017年グランドキャニオン大学卒業。約8年間のホテルマン生活の後、タルボット神学校入学。2020年、同校を卒業。聖書フォーラム長老。主の備え教会牧師。
スターバックスコーヒー(以後スタバ)は世界中どこにでもあるコーヒーショップで、その認知度、人気度は相当のものです。
上の写真は娘がシアトルへ行った時に入ったスタバです。『スターバックス・リザーブ』という高級コーヒー豆の焙煎工場とカフェが合わさったスタイルで、食器やサービスもグレードアップした新しいスタバ、人気のスポットだそうです。
スタバの創設者は、人々が安心してくつろげる場所を提供したいという願いから、「愛」をモットーに、1971年にカフェを始めました。コーヒーを飲 むためだけのカフェではなく、人々がそこで憩うためのカフェをめざしました。お客様に愛されるカフェを経営するため、従業員の教育に時間をかけ、働く人々 が意欲を持って喜んで働くことができるように組織パフォーマンスに力を入れ、見事な成功をたどっています。
スタバの経営の成功と成長から、私たち教会は何を学ぶことができるでしょうか。もし、教会が、私たちがスタバを利用するように身近で魅力的なものなら、もっと変わってくるのではないかな…と思いました。
スタバの朝のドライブスルーの代わりに、朝は『教会deコーヒー&ドーナッツ朝祈祷』からの出勤。夜は教会で聖書の学びだったり、祈祷会だったり (それも楽しい時間!)。昼間は『教会deキッズ大集合』、『主婦のお楽しみ会』、アフタースクールは『宿題を教会で! ルーム』。夕方になればユースのバンド練習。人々が当たり前に、楽しみと喜びを感じて教会で過ごすことがで来たなら、教会は、スタバよりずっと一人ひとり のニーズに応えることができる場所となるのは確かです。
スタバと同様に「愛」をモットーとする――「愛」がモットーであるのは私たち教会が元祖ですが――教会が成長するために、主イエス様がご自由に働けるために、私たちにどんなことができるでしょうか。
① ビジョンを持とう!
イエス様の福音がなければ誰一人救いを確信して生きていくことができない。福音こそが人を生かし、人生に目的を与える。とすれば、スタバのビジネス の成長よりもずっと魅力的な成長が教会に与えられるのは間違いない! 私たちは自信を持ち、確かなビジョンを持って教会の働きを進めましょう。
② 伝道しよう!
神様は実にユニークに人間を造られました。一人ひとりは高価で尊い存在なのですから、その救いのために、時間を割き、立場に寄り添い(理解し)、わ かりやすく(論理的に)語り、個人的な感情や憶測ではなく、生きて働くイエス様を証しましょう。伝道はイエス様を紹介することなのですから。
③ 弟子訓練に励もう!
礼拝、学び、普段の生活を通してイエス様と共に歩むことを身に着けましょう。この訓練の中に証しが与えられ、分かち合い、祈り、励ましが起こるのです。
クリスチャンの本来の姿は、主のみ言葉を聞き、主を賛美し、み声に聞き従うことにあります。そこにはいつも主の光があり、人々はそれを見て、教会 へ、家庭集会へとやってくるのです。これは決して理想論ではなく、私たちが神様との本来の関係を持つことができるなら、教会はスタバよりもずっと魅力的な 場所、憩いの場所となるでしょう。
キム明子(きむ・あきこ)
ゴ
スペル・ベンチャー・インターナショナル教会(GIVIC)日本語部牧師。"Stand" Women's Ministry USA
代表。クリスチャン女性の魂のケア、霊的成長の働きに従事。モットー「真面目に喜びと笑いがいっぱい、人に寄り添いイエス様にお仕えするしもべ」家族は韓
国人の夫とその両親、娘3人。
黙示録の2章と3章に登場する7つの教会は、ヨハネが黙示録を記した当時に実在した教会です。そして、それぞれの教会は黙示録に記された通りの状 態でした。また同時にこの7つの教会は、それ以後のキリスト教会が体験する霊的な状態を預言的に示していると言われています。つまりヨハネの時代以後の教 会は、エペソ、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サルディス、フィラデルフィヤ、ラオディキアの霊的な状態を歴史的に体験してきたのです。
なかでもラオディキアは背教の教会です。そして敬虔なクリスチャンの間では、現在はラオディキアの教会の時代であると言われています。つまり現代 は背教の時代であるというのがキリスト教文化圏にある信仰深い人々の認識です。同時に神学的に言えば、世界には、ラオディキア以外の6つの教会の信仰的な 状態を引き継いだクリスチャンたちが存在するということです。
7つの教会の最後が背教の時代であることは注目すべきことです。なぜなら、聖書のほかの箇所でも世の終わりが近づいた時代には背教が起こるとされているからです。例えば第二テサロニケの手紙2章3節には次のようにあります。
この聖句の言う「不法の人」とは、「反キリスト」のことで、クリスチャンには忌み嫌われますが、世界中の圧倒的多数の人々からは歓呼の声で迎えら れることでしょう。聖書はこの「反キリスト」が出現するお膳立てとして「背教」が起こると述べています。では「背教」とは何でしょうか。そして現代が背教 の時代なら、どのような背教の事例が現れているのでしょうか。
ラオディキアの教会の人々は物質的なものに満ち足りていたために惑わしに陥り、キリストに対する信仰が生ぬるくなった人たちでした。それと同時 に、キリストをないがしろにしてしまった結果、教会の中にキリストはおられず、戸の外に立って叩いている状態でした。このことは、ラオディキアの教会には キリストがおられないことを警告するものでした。
ところが一方、彼らの人間的な活動は人の目には満足のいくものでした。彼らは自分たちが豊かで満足のいく存在に見えていました。しかし神の目には、彼らは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸」だったのです(黙示録3:14-22)。
背教には様々な聖書的な説明が必要でしょうが、黙示録3章のラオディキアの教会に対する記述から考えると、霊的なことを軽んじ、世的な活動を重んじる惑わしが背教の初めであると考えることができます。その行き着く先はキリストの否定なのです。
世界に目を向ければ、宗教は統一した方が平和のためになると多くの人が思うかも知れません。イスラム世界ではキリスト教徒の腐敗がすべての悪の根 源であるとされていますし、先進国ではイスラム教原理主義者たちによるテロの危険が叫ばれています。日本でも怪しげなカルト教団などの影響で、宗教は毛嫌 いされる傾向があります。そこで「ニューエイジ」的な考え方、つまり、すべての宗教は同じ神の別の表現であるとする考え方が支持され、宗教概念の統一が叫 ばれています。世界中に広がりつつあるエキュメニカル運動がまさにそれではないかと思えてなりません。
聖書の終末預言の立場から言えば、これらの宗教統合の動きはさらに加速していくでしょう。そして聖書に記されている反キリストと呼ばれる人物が登 場することになります。彼は宗教統一のムーブメントに乗じて世界的なリーダーとなります。しかしやがて彼は、この世界統一宗教を否定し、自分が神であると 宣言します(第二テサロニケ2:4)。
クリスチャンにとって、背教はすでに始まっている現実です。しかしこの世的な目で見れば今後は神についての宗教概念が統一され、良い宗教と悪い宗 教の区別が付きやすくなる便利な基準が登場するでしょう。そして人々はそれを人類の精神的な進歩と言い出すでしょう。その考え方を受け入れない人々は偏屈 者とされ、大患難時代には投獄されたり殺されたりするというのが聖書の預言です。そして、今はその直前の時代にあるというのが、いわゆる聖書信仰に立つク リスチャンたちの考え方の中にあります。
今年のリトリートのテーマは「終末を前にしたキリスト者の生き方」です。この機会に聖書の終末預言に対する理解を深め、この時代を生きるにふさわしい信仰者として整えられたいと願います。
鶴田健次(つるた・けんじ)
SCCR 主事。ラスベガス日本人教会牧師。
〝WWJD?〟皆さんはこの言葉の意味をご存知でしょうか? クリスチャングッズに印字されることが多い言葉なので、ご存知の方も多いかとは思います。私が聖書に書き込むときに使っているボールペンにも印字されてい ます。これはある言葉の頭文字を取って並べたものです。それは〝What Would Jesus Do?〟という言葉です。日本語に訳せば「イエス様ならどうするだろうか?」になるでしょうか。
この言葉は、〝In His Steps〟(彼の足跡に従って)という本から出たものだそうです。この本は、1896年にアメリカの牧師である Charles Monroe Sheldon が書いた小説です。
〝WWJD?〟これは問いかけとして書かれています。では誰に対して問いかけている言葉でしょうか? 私はこの問いが他でもない自分自身に対してであると受け止めています。この言葉は、私がイエス・キリストの弟子として歩む道の指針を示してくれます。です から、常に私に問いかける言葉なのです。
私たちの日常では、常に、自分で考え、判断する事が求められます。例えば、今日の夕飯のメニューをどうしようかと考えながら食材をカートに入れて いきます。しかし同時に、私たちは誰かの考えを取り入れて判断したりもします。夫や妻、また子供が食べたいと言っていた食材を選ぶことも多いでしょう。私 たちの日常生活の中には、「私は」の世界と「他人は」の世界があります。それを土台に判断して生きていく。しかしその中で、「イエス様は」あるいは「イエ ス様なら」というスペースを持っているでしょうか。
〝WWJD?〟イエス様なら、こういう時どうされるかな。イエス様なら、この人にどんな声をかけるかな。イエス様なら、この状況でどんな表情をされるかな。
もし私が、夫婦が、家族が、教会が、地域が、国が、世界が、イエス様のことを考えて行動しようと志すなら、そこに、主にある一致が生まれ、大いなる神の栄光が光り輝くと思います。
イエス様のように話し、考え、行動する。そのためのコツというものがあるとするなら、それは「いつもイエス様の側にいる」ことです。
日本では「師匠と弟子」という関係性があります。弟子は師匠の元で「見て学ぶ」ことをします。師匠の佇(たたず)まいや作法から、あらゆるものを 側で見ながら学ぶ。私はしばらく茶道を習っていましたので、理屈や知識だけでなく実際に「見て学ぶ」大切さを知りました。その中で私が知ったことは、見て 学ぶべきものは「テクニック」ではなく「心」だということです。一つ一つの作法にはテクニック以上に心が伴っている。テクニックだけを学んでも一流にはな りません。形だけで師匠と同じようにはなれないのです。偉そうに言っている私は、その本質の中で学ぶが出来たとはとても言えないような者でしたが…。
「イエス様ならどうするだろうか?」そのことを本当の意味で自分に問うなら、イエス様のテクニックではなく、心を深く知ることが求められます。イエス様を愛しているからこそ、もっとイエス様のお心を知りたい!! と願うのが私たちです。
イエス様は最後の夜、どんな心で弟子たちの足を洗ったのだろうか。どんな思いで膝をかがめてペテロの足を洗ったのだろうか。イエス様はただテクニックを見せるために足を洗ったのではありません。そこにはイエス様の心があるんです。愛があるんです。
私たちは主の弟子として、御霊により御言葉を通して、祈りを通して、教会の交わりを通して、師匠であるイエス様の側に身を置き続け、イエス様の心 を知り続ける者でありたいと思います。そんなあなたに出会った人から、「あなたの師匠って、イエス様でしょ!」と言われたら、それはもう最高じゃないです か。
〝What Would Jesus Do?〟
関勇矢(せき・ゆうや)
サ
ウスベイ・ホーリネス教会牧師。神奈川県出身。中学からハワイに移り住む。1年間の Azusa Pacific University
留学を挟み、ハワイ大学を卒業。その後、日本ホーリネス教団東京聖書学院を卒業し、現在ロサンゼルス歴早3年。趣味はカフェ巡り、ハイキングなどのアウト
ドア系。
ハレルヤ!主の御名を賛美いたします!
今年は、11月27〜29日に南カリフォルニア・クリスチャン・リトリートが Encino で開催されますことを、主に期待いたします。
私はこの度、リトリートの主題「終末を前にしたキリスト者の生き方」と、全体のスケジュールを拝見し、ヘブル人への手紙10章25節のみことばを心に想いました。
盛りだくさんのプログラム、これらを私たちが同じ場所で、主にあって共有できるとは、なんという祝福でしょう!「リトリート」の言葉の通り、私たちがしばし、それぞれの日常から退いて、ともに集まり、主にあるひとときを持つことができる恵みを感謝します。
このヘブル人への手紙10章25節は、今年のリトリートの主題にあるように、まさに「終末」を前にした私たち、キリスト者に向けて、「その日が近 づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」と、今日を励まし合って生きるよう勧めているみことばです。
ともに集うことは、私たちの励ましとなります。それは皆さんもそれぞれ、主にある兄弟姉妹や神の家族の存在を通して、日々体験していることと思い ます。つまり、私たちは一人きりでキリスト者の生活を、この地上で生きるようには召されていないということです。私たちは他のキリスト者とともに生きる者 として、今日、この時代、主によって召されている者たちなのです。
そのように、今日を生きる私たちへ、みことばは、今日も「励まし合いましょう」、「ますます励もうではありませんか」と勧めているのですから、この勧めにある祝福を、私たちは日々の歩みの中でさらに体験していきたく願います。
南カリフォルニア・クリスチャン・リトリートには、私は今回、初めて参加します。主にある皆さんと主にある時間を、ともにできることを楽しみにしています。
高木牧人(たかぎ・まきと)
ロ
サンゼルス・ホーリネス教会牧師。宮城県出身。東京聖書学院卒業後、東京都小金井市にある母教会に仕え、2017年に北米ホーリネス教団ホノルル・キリス
ト教会に副牧師として赴任。2021年11月より、ロサンゼルスに。趣味は、観葉植物やジムに行くこと。家族は妻と娘。
1年は1月1日から始まります。でも、それは一般のカレンダーの場合です。教会の礼拝のカレンダー(Christian Calendar/Liturgical Calendar)ではクリスマスの4週前の日曜日から始まります。
年によっては11月の最終日曜日であったり、12月の第1日曜日であったりしますが、その日は「アドベント第1主日」と呼ばれます。「アドベン ト」とは「到来」を意味する言葉で、救い主イエス・キリストの到来、つまり、「ことばが人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)ことを覚 えるものです。
アドベントには「アドベント・キャンドル」を灯す慣わしがあり、アドベント・キャンドルの真ん中には白く大きなキャンドルを置きます。これは「い のちの光」イエス・キリストを表し、「キリストのキャンドル」と呼ばれます。その左右、あるいはまわりに4本のアドベント・キャンドルを立てます。それぞ れには、次のような「名前」と「意味」があります。
アドベント第1主日「預言のキャンドル」(希望)
この週には預言者たちによって語られた救い主到来の希望を覚えますので、
などの御言葉を読み、「久しく待ちにし」や「エサイの根より」などの賛美を歌うと良いでしょう。
アドベント第2主日「天使のキャンドル」(平和)
この週にはイエスのお生まれを告げた天使が
といって賛美したことから、「平和の君」イエスによって与えられる平和を覚えます。この週には「荒野の果てに」、「天には栄え」、「天なる神には」などの賛美がふさわしいかと思います。
アドベント第3主日「羊飼いのキャンドル」(喜び)
この週には羊飼いたちが御子を礼拝した喜びを覚えます。アドベント・キャンドルは、ふつう「待望」を意味する「紫」色のものが使われますが、「羊 飼いのキャンドル」だけは色が違っていて、「薔薇」色が使われます。これは、「喜び」を表しています。聖書に次のようにあるからです。
この週には「諸人こぞりて」を歌うといいかと思います。英語では "Joy to the world" と、「喜び」という言葉がそのまま使われています。「牧人 羊を」にも「喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ」とあります。
アドベント第4主日「ベツレヘムのキャンドル」(愛)
この週は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶に寝かせられた御子が、じつに、神の愛の賜物であることを覚えます。ヨハネ3:16を味わい、「独りの御子を」、「神は独り子を」、「それ神はその独り子を」などを賛美して過ごしましょう。
クリスマス・イヴ
古代には、日没が日付の区切りでしたから、クリスマス・イヴは「クリスマス・デー」として祝われます。従って、この時には「キリストのキャンドル」を灯します。クリスマス・イヴには
などを朗読するといいでしょう。クリスマス・イヴの賛美といえば、なんといっても、「きよしこの夜」ですが、他にも「ああベツレヘムよ」、「入れまつる家あらず」、「馬槽のかたえに」を献身の思いをもって賛美したいと思います。
クリスマス・デー
世の人々にとってはクリスマス・イヴはパーティの日、クリスマス・デーはウィンター・バケーションの始まりかもしれませんが、キリスト者にとっては大切な礼拝の日です。聖書に
と あるように、永遠の神の御子が人となられたことによって、御子を信じる者が神の子どもとされるようになりました。クリスマスは、「受肉」の奥義(神秘)を 静かに想い、大いに神を賛美する日でありたいと思います。クリスマスの賛美は、決してセンチメンタルなものではありません。「生けるものすべて」、「神の 御子は」、「諸人声上げ」など、どの賛美も「受肉」の奥義を歌いあげています。
上記を参考にして、それぞれの家庭で、あるいはグループで、アドベントの礼拝を行ってみてください。
クリスマスは12月25日から、エピファニーの前日、1月5日まで12日間祝われます。日本の文化を取り入れた新年の飾り付けをするのでなければ、1月5日までは「キリストのキャンドル」を灯し続けておくと良いでしょう。
【注意】教会や家庭でキャンドルを使うときには、くれぐれも火災に気をつけ、教会の場合は管理する人を決めて、安全を確認するようにしてください。裸火が心配な場合は LED キャンドルを使うことをお勧めします。
中尾フィリップ(なかお・ふぃりっぷ)
サ
ンディエゴ、サンノゼで伝道牧会の後テキサス州に。ダラス永楽長老教会日本語ミニストリー協力牧師。Penguin Club
より伝道、聖書、霊性の学びを提供。月刊聖書黙想の手引『日々の聖句』主筆。Podcast "Philip's Bible Message"
ホスト。スモールグループ、セミナー、リトリートの指導。
2023年11月27日〜29日に行われたリトリートは、祝福のうちに終了いたしました。2023年度リトリートのための祈りとご支援をありがとうございました! 以下は参加者より寄せられた「証し」です。リトリートの内容などを読み取っていただけることと思います。
SCCR は「日本語を使うクリスチャンたちために、教派を超えたリトリートを持ちたい」とのビジョンにより創設され継続されていると聞いてきましたが、今回、初めて参加し、恵みを一杯に頂きました。
会場では、多数の牧師先生方、スタッフの皆様、同じ主を見上げる兄弟姉妹に暖かく迎えられ、清潔な心地よいお部屋、美味しい食事、緑に囲まれた静寂な環境の中で、共に集まり、祈り、賛美し、聖書を学ぶ機会を頂き、全てが期待を遥かに超えた、「日本語を語る人々のリトリート」でした。本当に参加して良かったと思いました。
私は、バプテスマを受けておよそ10年になりますが、これまで、自分の通う地域教会しか知りませんでしたが、こんなに沢山の同じ信仰の兄弟姉妹がカリフォルニア中に、また、他の州にいらっしゃると知って、大きな励ましを受け、喜びを見出しました。小さな枠の中のコンフォート・ゾーンに安住していたと、つくづく思いました。
リトリートで学んだ内容の中身は大変濃く、トピックも多岐に渡っていました。3日間で何ページもノートを取り続けましたが、3日目には、私の頭の中にもう少し酸素が必要なのか、全てを消化しようと思うと若干大変になってきました。
今、感想を綴りながら、第四聖会の最後に大倉先生が私たちに再確認してくださった、一番大切な第一の戒め、「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」、そして第二の戒め、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」をもう一度思い起こしています。また、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)との御言葉を思いながら、「イエスが愛したように」を口ずさんでいます。
来年も是非参加したいと願っています。周りの兄弟姉妹にも参加を勧めます。ありがとうございました。
11月27日から29日まで行われた「南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート」に、今年、初めて参加しました。会場は、ロサンゼルス郊外のエンシノという静かな住宅地の中にあるカトリック教会の施設でした。晩秋の紅葉したたくさんの木々とサボテンの庭に囲まれた静かな環境にも心癒されました。
初めての参加でしたが、会場に入ったとたん、聖会講師の大倉先生がおられ、関勇矢先生、高木先生、キム明子先生など、知り合いの方々に会い、互いに再会を喜び合いました。これらの若い先生方の賛美とお祈りが素晴らしく、毎回聖会の初めに雰囲気を盛り上げてくださいました。
「リトリート」は、毎週日曜日の礼拝と違って、日常生活から完全に離れ、一同に集まり、共に神様を賛美し、祈りあい、集中して聖書の講義を聞くことです。それは、聖霊の豊かな満たしを得る大変貴重な経験でした。
今回の主題は「終末を前にしたキリスト者の生き方」、副題は「最も大切なことに人生を捧げる」で、大倉先生が分かりやすくお話ししてくださいました。聖句はマルコ福音書12:29-31でした。終末期を迎えて、残された人生をどのように過ごしていくかという事は特に最近切実に考えさせられていた事です。イエス様が「すべてを尽くして神と人を愛して生きなさい」と言われたことを、具体的に現実に実行していくには、どうしたらよいかを私なりに考えました。そして、私にとって大切な隣人である教会の兄弟姉妹の事を常に心にとめて、日々祈り、愛の行為を具体的に表していきたいと思いました。また、長い年月聖書を学んできて、これからも継続していきますが、自分が学ぶだけで終わらず、家庭集会を通して、最近洗礼を受けた方々を導けたらと思いました。そのために聖霊様の導きを祈りつつ、一歩ずつ前進していきたいと切に願いました。
2023年 SCCR のお土産は、「神を愛し、隣人を愛すること」、他の事は忘れても、これだけは忘れずに持って帰ってください、という言葉を頂いて帰ってきました。この言葉は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし。力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12:30)の第一の戒めと、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マルコ12:31)の第二の戒めです。
イエス様が、全ての戒めの中でどれが一番大切かと律法学者に聞かれたとき語られた言葉でした。リトリートの主題が、「終末におけるキリスト者の生き方」とあったので、このみ言葉が終末とどう繋がるのだろうと思いました。
講師の大倉牧師は、イエス・キリストが最も大切にしておられる事に耳を傾けてみましょうと言われ、第一聖会では、「人生の残り時間について」語ってくださいました。その中で、クリスチャンは、初めを知る者であり終わりを知るものだから、しっかりゴールを見極めて、残りの人生を価値あるものに捧げてください、と言われたのが心に残りました。
第二聖会は、「第一のことを第一に」でした。優先順位は神様が一番ですか? 「はい」、答えは即答です。では、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛してますか?」、第一の戒めが迫ってきました。100%の返事ができなかったのです。しかし、その答えは賛美の時に示されました。心の内からどうしようもない喜びに満たされて賛美をされてる賛美チームの方々を目の前にしたとき、私の持っている神様に対する愛が圧倒的に足りてないことを実感させられました。 「神様、ただあなただけを愛します。あふれる思いで満たし、御そばに引き寄せてください」と心から祈り求めました。
第三聖会は、「人間を大切に」でした。またもや第二の戒めが迫ってきました。「自分を愛するように隣人を愛してますか?」
その答えが分かったのは、帰宅してからでした。身の回りの整理をしていたら手紙の束が出てきたので、懐かしく思い、読み返してみました。驚いたことに、そこには私に対する愛であふれていました。それに比べて私はまたもや自分の愛の足りなさを思い知らされました。
第四聖会は、「教会を大切に」でした。教会は食事会やガレージセールをするところではなく、聖書を中心にみ言葉によって生活する者の集まりであると言われ、教会の使命を再確認することができました。
今回のリトリートは、私にとって特別な時となりました。神様による恵みと憐みに感謝すると共に、終末において、救われた者を完成に導こうとされている神様の御手を覚えずにはいられませんでした。誇るものは何一つない私ですが、神様の愛で再び新しくされたその力で、神様を第一に、家族、友人、教会を大切にして、残りの人生を最も価値あることのために主の道を歩んでいきます。
今回、4年ぶりに対面でのリトリートが持たれました。私にとっては、初めて参加した4年前は通いでしたので、宿泊込みの全日程、また、準備委員としての参加は初めてでした。
聖会の講師の大倉先生は、あらかじめ、スモールグループでシェアする各自への問いかけを用意してくださったので、今回のテーマの「終末を前にしたキリスト者の生き方」をさらに4つの角度から聖句と具体的な例を取り入れて説明してくださり、4回の聖会とも、神様の愛の深さと壮大なご計画に改めて目が開かれた思いでした。
4人の先生方によるセミナーからも、神様の愛を知らず、実践できずに起きている様々な問題を具体的な状況や働きを通して学ぶことができ、大きな恵みを受けました。
今回は、パンデミック以前のリトリートや、過去3回のオンラインリトリートの時に比べると参加者は少なかったですが、そのために「分科会」が「セミナー」に変更され、担当の先生方全員のお話を聞くことができたのは、「すべてを益にしてくださる」神様の御業だと思いました。
私が行っているアメリカ人の教会では賛美も英語の曲なので、今回賛美した日本語の近代的な曲は初めて聞くのがほとんどでしたが、魂を込めた賛美チームのリードのおかげで、多少歌詞や音程がズレようが、これは神様に捧げているのだと、大きな声で、そして全身で、喜んで賛美できました。
私は準備委員で登録担当をしていますが、何しろ IT 音痴なので、最初はどうしたものかと思いましたが、IT に詳しい堀田先生や準備委員のご協力、息子と、3年前の聖会講師の中尾先生からの助けを受けて、ここまで来ることができました。
会場の受付で参加者の方々が声をかけてくださり、また、当日ご奉仕をしてくださった姉妹の方々とも親しい交わりを持つことができたのも、準備委員ならではの祝福でした。この文を読んでおられる方々が、数多く奉仕に加わってくださることを祈っています。
あれもこれもと内容があちこちに飛んでしまいましたが、リトリートのプログラムはどれも素晴らしく、多くの学びの中で、大倉先生がこれだけは忘れずに、とおっしゃった「神を愛し、隣人を愛せよ」を実践できるよう、祈っていきたいと思います。
今回、参加された先生方、そして兄弟姉妹、参加できずとも遠くで祈ってくださった皆様に、そしてリトリートを通して多くの恵みをくださった神様に感謝いたします。
©2022-2023, SCCR